江戸時代

黒田騒動 ~筆頭家老が藩主を訴えた前代未聞の江戸三大お家大騒動

黒田騒動とは

黒田長政は、豊臣秀吉の軍師・黒田官兵衛の息子で、関ヶ原の戦いで徳川家康を助け、福岡藩52万石の初代藩主となった。

黒田長政が亡くなった後、黒田藩筆頭家老の栗山大膳(くりやまだいぜん)が二代藩主・黒田忠之(くろだただゆき)を謀反の企てがあるとして幕府に訴え出るという前代未聞の「黒田騒動」が起きた。

加賀騒動・伊達騒動、あるいは仙石騒動と並び、江戸三大お家大騒動と言われた「黒田騒動」について迫る。

黒田忠之と栗山大膳

黒田騒動

福岡藩2代藩主 黒田忠之の肖像画。

福岡藩二代藩主・黒田忠之(くろだ ただゆき)は、初代藩主・黒田長政の嫡男として慶長7年(1602年)に福岡藩筆頭家老・栗山利安の屋敷で生まれた。

祖父は豊臣秀吉の軍師・黒田官兵衛

父の黒田長政は、幼き頃に織田信長の元に人質に出され幾多の戦をくぐり抜け、関ヶ原の戦いでは徳川家康につき豊臣恩顧の諸大名を東軍につかせて、その功によって福岡52万石の大大名となった。

忠之は生まれながらの御曹司であり、祖父や父とは違い、性格は奔放でわがままであった。

外見は華美で派手なものを好んでいたため、父・長政は忠之の挙動が心もとなく、弟の三男・長興に家督を譲り、忠之の廃嫡を考えていた。

黒田騒動

栗山(大膳)利章の肖像

栗山大膳(くりやま だいぜん)は、黒田官兵衛の播磨時代からの重臣・栗山利安の嫡男であり、黒田長政に仕え、父の後に黒田藩の筆頭家老になり、忠之の傅役でもあった。

元和2年(1616年)、長政は江戸から目付役を2人さし向けて、忠之に3つの条件を突きつけた。

第1は、2,000石の田地を与えるから百姓になる。
第2は、1万両の銀子を与えるから関西で商人になる。
第3は、1,000石の寺領を与えるから僧侶になる。

この3つの中から1つを選べというものである。

当時の忠之は15歳、大膳は27歳だった。この選択は嫡男に対して余りにも非情なものであり、忠之・大膳は共に武将として絶対に承諾できない考え、大膳は忠之に切腹願いを出させた。

そして大膳は、大組という600石以上2,000石未満の藩士の嫡子たち90人を博多湾の小島に呼び集め、皆で主君・長政に対して「何とか若殿に反省の機を与えていただきたい、自分たちも若殿のために努めますが、この願いが許されないなら全員切腹して若殿にお供いたします」と、血判状を取り嘆願した。

大組の嫡子が全員切腹してしまえば黒田藩は成り立たないので、長政は「これは大膳の考えに違いない、仕方がない」と、廃嫡を取りやめた。

実はこの6年後にも同じようなことがあったのだが、この時も大膳たちが廃嫡を阻止している。

長政は死の間際に、大膳に忠之の後見を頼んで息を引き取った。

確執

元和9年(1623年)、忠之は家督を継いで二代藩主となったが、わがままは治らず家臣をむやみに打ち叩き、近臣を集めては毎日酒宴に溺れ、黒田家の剛健・質素な家風は忘れ去られていった。

藩の重臣たちが忠之に何度諫言しても忠之はとりあわず、大膳は忠之に説教ばかりするようになる。

それも22歳の主君に対して「朝は早起きしなければならない」とか、「家来をむやみに打ちたたいては駄目」とか、「来客には楽しそうに最後までふるまえ」など、次から次に説教をした。

忠之は当然大膳が疎ましくなり、わずか200石の鉄砲頭の息子で小姓から仕えていた倉八十太夫(くらはちじゅうだゆう)を側近にして、あっという間に9,000石の大身にまで出世させた。

また忠之は、重臣たちに相談もせずに十太夫を家老にしてしまい、十太夫に命じて大型の豪華な船舶「鳳凰丸」を建造し、新たに200人の足軽を召し抱えて一銃隊を編成して十太夫につけた。

幕府が軍縮を求めている中でのこの行動に、藩の取り潰しを心配する大膳ら重臣たちと、十太夫たち忠之の側近たちとの間に軋轢が生まれた。

大膳は若輩の十太夫に頭をさげて諫言書を忠之に届けるように頼んだが、十太夫はそれを握り潰して、逆に大膳の悪口を言いつけて忠之をたきつけた。

黒田騒動

栗山利安

これにより忠之と大膳の間には修復できない亀裂が生じてしまい、忠之は大膳の父・栗山利安が黒田官兵衛から拝領した「合子の兜と唐皮威の鎧」を返せと大膳に命じた。
大膳は栗山家の家宝である兜と鎧を返上したが、忠之はそれを十太夫に与えてしまった。

これにはさすがの大膳も怒り、十太夫の屋敷に行って取り返し、鎧と兜を藩の蔵に納めた。

将軍秀忠が没して、江戸で行われた葬儀に忠之が出席し帰国した時に、家臣たちは皆城外で忠之の帰国を出迎えたが、大膳は仮病を使って出迎えなかったという。
二人の間の確執は修復不可能な状態となっていった。

大膳は、忠之が自身を毒殺しようとしていると思い込み、ノイローゼ状態になってしまう。

訴状

寛永9年(1632年)6月、大膳は九州大名の総目付である日田代官・竹中采女正(たけなかうめのしょう)に「藩主に反逆の企てあり」との訴状を差し出した。

黒田藩の筆頭家老が藩の取り潰しも辞さない訴えを起こすとは、まさに前代未聞の出来事である。

大膳は屋敷を襲撃されるという風評を恐れたのか、代官に訴えれば天下の公事(くじ)となるので、忠之が手を出せなくなると考えた。
大膳は家来50人を連れて筑前を退散、その前に家族を他家に預けている。

この半年ほど前に、肥後の加藤家は冗談のような訴えで幕府に取り潰されている。

大膳の訴えに黒田藩の存続がどうなるのか?と藩内は大混乱になってしまうが、藩側は「大膳は狂人である」との主張を行い、後は幕府の裁定を待つしかなかった。

大膳の賭け

大膳は訴状を出す前にノイローゼ状態となり、忠之に毒殺されると思い込み、このままでは栗山一族は滅亡し、黒田藩も滅びてしまうと悩み抜いた。

そして、家来を集め汚名を一身に被って幕府へ訴え「黒田家を救う」と言って50人の家来を連れて日田の代官に訴状を出した。
日田の代官・竹中采女正は豊臣秀吉の軍師・竹中半兵衛の甥である。

忠之の父・長政は、幼い頃に織田信長の人質だったが、信長が黒田官兵衛の裏切りを疑った時に殺されるところだったのを竹中半兵衛が助けている。

黒田家と竹中家はそのような関係があったことも大膳は知っていたので、うまく取り成してくれると思ったのだろうか。
実は大膳は、黒田家が取り潰し(改易)にならないと思っていたという。

黒田騒動

黒田長政

徳川家康が天下をとった関ヶ原の戦いで、豊臣恩顧の福島正則加藤清正らに根回しをして東軍につかせたのは長政であった。

東軍が勝利した時に、家康は長政に感状を与えている。
その中には「長政の功を謝して、子々孫々まで疎略にしない」と書いてあった。

長政は死ぬ前に大膳にこの感状を見せ「よくよくの場合に使え、忠之には教えるな、これを盾に驕りが生じては困る」と言い残している。

神君・家康公の感状であり、大膳はいざという時にはこの感状を使えば黒田家を潰すことなく乗り越えられると考え、自分が「主君を訴えた反逆の罪」をかぶれば良い、と大きな賭けに出たのだ。

裁定

幕府の評定所で、忠之と大膳の対決となったが、忠之はその呼び出しに応じなかった。

忠之は老中の土井利勝酒井忠勝に対して「君臣の対決というのは古今未だ聞かざるところ、それを強要されるなら切腹させてくれ」としたのだ。

老中たちも、さすがは長政の息子だと感心してしまったという。

そして忠之の代わりに黒田美作小河内蔵允が評定所で大膳と対決したが、大膳の雄弁に2人はやり込められてしまう。

しかし大膳の謀反の申し立てには、肝心な証拠が見つからなかった。

禁令の大船建造は、幕府からの咎めを受けて大膳自身が弁明にあたっている。
忠之は足軽を200人幕府に無断で召し抱えたが、これくらいでは謀反とはされなかった。

そこで土井利勝・酒井忠勝・井伊直孝の老中たちはおかしいと思い、大膳1人を呼び出して真意を聞いた。

すると大膳は「主君・忠之の性格ではいずれ筑前一国が滅亡する。それなら自分が悪者になって訴えて出れば所領の幾らかは安堵してもらえるだろう。藩の取り潰しは我が本意でない」と言って涙した。

老中たちは「さすがは長政の家臣よ」と感心したという。

家光の裁定

黒田騒動

徳川家光

寛永10年(1633年)3月、三代将軍・徳川家光から裁定が下った。

忠之は

「治世不行き届きにつき、筑前の領地は召し上げる。ただし、父・長政の忠勤戦功に対して特別に旧領をそのまま与える」

と、黒田藩は所領安堵となった。

大膳は

「主君を直訴した罪で奥州盛岡藩に配流、ただし150人扶持を生涯与える」

というものであった。

大膳は切腹を覚悟していたが、奥州盛岡藩南部家にお預かりの身となり、生涯150人扶持で厚遇されたという。

倉八十太夫は高野山に追放となった。

後に島原の乱で黒田家に陣借りして鎮圧軍に従軍したが、さしたる戦功も挙げられずに黒田家復帰はならなかった。

おわりに

黒田騒動の結果としては、黒田藩は取り潰しにはならず、藩主・忠之は島原の乱や長崎警護で活躍し、治世のために尽力した。

大膳は罪人でありながら盛岡藩で厚遇されて、62歳で生涯を終えている。

黒田騒動は血は一滴も流れずに終結していることから、後に歌舞伎の演目として上演され人気を得た。

森鴎外の小説「栗山大膳」では、大膳は忠義の人物で主君・忠之の暴政を諌めるために黒田騒動を起こしたと書かれている。

また、違う作品では大膳は生真面目で勇断の人ではあるが、自身の忠義にこだわるあまりに融通がきかずに主君から疎まれ、家中で孤立し己の面目を保つために黒田騒動を起こし、主家を危機に陥れたと書かれている。

いずれにせよ、黒田長政の考えどおり忠之を廃嫡していれば、この騒動は起こらなかったと言える。

 

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