安土桃山時代

織田信長は天下を目指していなかった?「目的は秩序回復だった説」

戦国ファンの多くは、織田信長が好きだ。

信長の魅力は、破天荒な性格や強いリーダーシップに加え、その革新的な政策や戦い方にあるのは間違いないだろう。

少人数で今川軍の大軍を討ち破った「桶狭間の戦い」、鉄砲を用いて武田軍に勝利した「長篠の戦い」、楽市楽座などの革新的な政策の数々。

信長のすべては、人々の心を掴んで離さない。

変る信長の人物像

織田信長は天下を目指していなかった?

画像 : 織田信長 public domain

現在の信長観を定着させたのは、戦前・戦後を通じて活躍した近世史家「今井林太郎(りんたろう)氏」なのかもしれない。

今井氏は、1934年(昭和9年)に「信長出現の歴史的根拠」を、1947年(昭和22年)に「信長政権の歴史的意義」を、1963年(昭和38年)に「信長の出現と中世的権威の否定」を相次いで発表し、信長の強い革新性を主張したのである。

一連の今井氏の研究を受けて、その後も信長は革新的な人物とされた。しかし近年の研究では、信長の強い革新性などが否定されつつある。

そもそも、信長が天下統一を目指したという考え自体に疑問が提示されているのだ。

天下」という言葉は「全国津々浦々」を意味するように思えるが、信長の時代の頃は京都を中心とした畿内の範囲という意味で用いられていた。

実際に信長が日本全土の制覇を目論んでいたのかは、わからないといわざるを得ない。

信長の目的は秩序回復だった?!


画像 : 足利義昭坐像

天下とは、天皇や将軍の支配領域を意味するものでもあった。

信長は当時の正親町(おおぎまち)天皇を廃し、代りに天皇位に就こうとしたとか、最初から室町幕府を滅ぼそうとして、足利義昭(よしあき)を傀儡にしようとしたという説があるが、概ね誤りである。信長は朝廷や幕府を尊重し、畿内の秩序回復を目指していたのだ。

信長の家臣に対する態度も同じである。有名な「越前国掟(えちぜんくにおきて)」において、信長は家臣に絶対的な忠誠を誓わせた。ゆえに、信長の家臣たちは彼のロボットとして全面的に指示を仰ぎ、実行に移したと考えられてきた。

しかし近年の研究によると家臣たちは、ある程度の自主性を持って各方面軍の支配に当ったことが指摘されている。

つまり従来説は否定されつつあるのである。

保守的な信長像

織田信長

政策についても、同じことがいえる。

信長は荘園を温存するなど、かなり保守的な考えの持ち主であった。寺社の保護も行っており「神をも恐れなかった」とういう考えも疑問視されている。

比叡山が焼き討ちにあったのは、単に彼らが信長に敵対したからであって、単純な宗教弾圧とはいえないとされている。

有名な楽市楽座は、信長オリジナルの政策として高く評価されているが、実際はそうではない。すでに近江の六角氏が行っていたことが指摘されている。

とはいえ、信長の価値が下がるわけではない。これについてはより冷静な議論が必要である。

桶狭間の戦い

織田信長は天下を目指していなかった?

画像 :『尾州桶狭間合戦』 歌川豊宣画

織田信長が「海道一の弓取り」と称された今川義元を討ち破った「桶狭間合戦」は、信長台頭の第一歩といっても過言ではない。

最初に桶狭間合戦の経緯について触れてみよう。

1560年(永禄3年)5月12日、今川義元は4万(一説では25,000とも)の軍勢を率い西上の途につき、三河・尾張の国境を越え、19日には桶狭間に到着した。

義元の西上については上洛を目指したとの説もあるが、目的は定かではない。

無論、信長はむざむざと自身の領内を義元に通過させるわけにはいかなかった。迎え撃つ信長は、家臣の進言に従って義元との野戦を決意し、同月18日、わずかな手勢を率いて出陣する。

信長の軍勢は数のうえで今川氏よりも劣っていた。

そこで織田軍は義元の軍勢が休んでいるところに、豪雨の中で奇襲を仕掛けて襲撃に成功したというのが通説だ。

勝機は正面攻撃!

近年の研究の進展に伴い、桶狭間合戦における信長の奇襲攻撃にも疑義が提示されている。

奇襲説が広まったのは「浦庵信長記」の記述をもとにして帝国陸軍参謀本部の手になる「日本戦史 桶狭間役(おけはざまのえき)」が認められたからである。

以降、奇襲説は定説となり、疑われることはなかった。テレビや映画、小説でも奇襲説を支持している。

一方、近年では信長の軍勢が豪雨があがった後、今川軍に正面から攻撃を仕掛けた「正面攻撃説」が有力である。

今川軍は予想外の正面突撃に浮き足立ち、混乱したというのだ。

この説は信長に仕えた太田牛一(おおたぎゅういち)の手になる「信長公記(のぶながこうき)」に書かれている。信長公記は史料的価値も高いと評価されている。

信長についても推測の域を出ないものの、近年になり新たな説が提唱されるようになった。

その実像が明らかになる日も遠くないかもしれない。

 

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