中国史

秦の始皇帝が行った恐ろしい刑罰とは

秦朝

秦の始皇帝が行った恐ろしい刑罰

イメージ画像 : 焚書坑儒

秦朝は、中国史上初めて天下統一した王朝である。

中国を統一した始皇帝は、中央集権化を進めるために様々な政策を行った。統治のための政策として郡県制が行われ、全国を36郡(のちに48郡)に分け、郡の下に県を置き、皇帝直属の官吏を派遣し統治させた。その他に、軍事を担当する大尉、官吏を監察する御史大夫を任命した。

また、度量衡の統一や小篆という文字利用、阿房宮の造営なども行った。

それまでに前例のなかった全く新しい改革を次々に行った始皇帝だったが、反発も大きいものとなった。

始皇帝が行った改革で有名なのは「焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)」ではないだろうか。

始皇帝は国民の思想や言論の自由までを奪い、厳しい規制を敷いた。「坑儒」とは儒学者を生きたまま生き埋めにするという残酷な刑罰だった。

始皇帝は儒教家が国民の思想に与える影響を恐れたのだ。儒者が国民に水面下で教えを説き、国に対する不満や怒りを募らせ、反乱を起こすことを防ぐという目的があったと思われる。

そのため、多くの儒学者が犠牲となったのである。ある記録によれば、460人もの儒教者が一度に生き埋めにされたと伝えられている。

このように、始皇帝が行った政策は非常に過酷なものも多かった。

では、秦時代の刑罰は具体的にどのようなものがあったのだろうか。

死刑の種類

死刑の中でも刑は5つに分かれていた。

秦の始皇帝が行った恐ろしい刑罰

イメージ画像 : 車裂

1「車裂」

その中でもかなり残酷な酷刑は「車裂(くるまざき)」と呼ばれた。その言葉から何となく想像できる人もいるだろう。

まず、死刑囚の首、両手、両足の五つの部分を紐で縛る。そして紐の先は5頭の馬車に繋がれており、執行人が馬を駆り立てると…死刑囚の体は五つに裂けてしまうのである。とても残酷な刑罰である。

この刑は、反乱を起こして民衆を扇動した者たちに対して執行されるものであった。以後、王朝に刃向かうことなど考えられないように、見せしめの意味もあった。

2「囊撲」

囊撲(のうぼく)とは、受刑者を袋に詰め込んで撲殺するという刑罰である。始皇帝は若い頃、異母兄弟の二人をこの刑に処したという。

3「肉刑」

肉刑とは、主に身体に痛みと辱めを与えるために、鼻を削ぎ取ったり、手足を切り離したりする刑である。削ぎ取られた鼻は山のように積み上げられ、切り取られた手足は車の荷台をいっぱいにしたという。さらに男性の受刑者には性器を切り取られるという処罰が行われ、その数はなんと「70万人」にも及んだとされている。

多くの場合、これらの刑罰は公開処刑として行われ、受刑者が息絶えた後もその首が晒されたり、肉が細かく刻まれたりするなど、受刑者に対して一切の尊厳を与えないようにされた。

4「族刑」

族刑とは、クーデター未遂など王権を脅かす重罪を犯した者は、罪人自身のみならず、その一族も根絶やしにするいう非常に重い刑罰である。

ただしこれは秦に限った話ではなく、古くは殷王朝の時代から行われており、中国大陸においてはどの王朝においてもデフォルトの刑罰である。

歴史上、三族の族誅が最も多く行われたが、その範囲は「父、兄弟、妻子」だったり「父、子、孫」だったり、王朝や時代ごとにバラバラのようである。
九族という場合もあり、「三字経 」では高祖父、曾祖父、祖父、父、本人、子、孫、曾孫、玄孫とされているが、ここまで来るとどうやって刑に処したのか、本当に実行していたのかも謎である。

三国時代においては司馬懿が最も得意としていた刑でもある。

参考記事
公孫淵 ~遼東の燕王 二枚舌外交の悲惨な末路~ 【司馬懿により国の15歳以上の男は皆殺し】
https://kusanomido.com/study/history/chinese/sangoku/63997/

「ボケ老人のフリして政敵を粛清」 司馬懿による血塗られたクーデター 高平陵の変
https://kusanomido.com/study/history/chinese/sangoku/65087/

史料は中国のものが最も多いが、中東やローマなど世界各地で行われており、日本では豊臣秀次由井正雪なども族刑に処されている。

5「定殺」

定殺とは、受刑者が「らい病人」であった場合、水の中に入れられて溺死させられる刑罰である。

6「坑」

は、生きたまま縛られ穴に埋められる刑罰である。

前述したように、儒学者が主にその処罰の対象となった。

また、刑罰ではないが秦が天下を統一する前に将軍・白起(はくき)が趙軍40万人を生き埋めにした逸話も有名である。

参考記事
白起 ~春秋戦国時代伝説の不敗将軍【捕虜40万を生き埋めにした殺戮大将軍】
https://kusanomido.com/study/history/chinese/65759/

労役刑

一定の期間行動が制限され、労働によって罪を償うという刑罰もあった。

山に入って薪を集める仕事や、土地を開拓したり、道を広げたりするのに沢山の受刑者が労働に駆り出された。

財産刑

主に何かの役職があった者が罪を犯した場合、その金銭や財産を持って罪を償うことができた。

しかしこれは特権階級のみが使用できる刑罰であった。金も権威もないものは、命か労働をもって償うしかなかったのだ。

罪を犯したものが高官であった場合、罪の重さによってはその者の身分だけではなく、子孫の身分にまで影響を及ぼした。

流刑

流刑とは居住地を奪われ、一定の場所で生活することを強要させられる刑である。

これは最もポピュラーな刑で、世界各地で行われている。

日本では源頼朝後鳥羽上皇を始め、数えきれないほどの人物が流刑に処されているし、西洋ではナポレオンの流刑が有名である。

終わりに

このように、秦の時代には数々の酷い刑罰が存在した。

刑罰の多くは各時代の王朝から引き継がれ、清朝の時代まで続くものまであった。

これらの酷刑が、当時の法律に基づいた合法なものとされていたという事実は、現代の私たちにとっては驚きでしかない。

 

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草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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