奈良時代

【古代史】蝦夷討伐に活躍した坂上田村麻呂のルーツは後漢の霊帝?その子孫たちも徹底紹介!

坂上田村麻呂(さかのうえの たむらまろ)と言えば、征夷大将軍として蝦夷(えみし。東北地方の抵抗勢力)討伐に大活躍したことで知られます。

蝦夷討伐の陣頭指揮をとる坂上田村麻呂。月岡芳年筆

あまり日本史に興味がない方でも、歴史教科書で名前くらいは見聞きしたかも知れません。

さて、そんな坂上田村麻呂とはいったい何者なのでしょうか。今回は江戸時代の系図集『寛政重脩諸家譜』より、当人の記録と祖先のルーツをたどってみたいと思います。

胸板の厚さ36センチ!絵に描いたような豪傑ぶり

田村麻呂

苅田麻呂の三男なり。身のたけ五尺八寸、胸のあつさ一尺二寸、身をおもくなすときは二百一斤、軽くなすときは六十四斤、こゝろにまかせおりにしたがふ。眼は蒼隼のごとく、鬚は金線のごとくにして膂力あり。桓武天皇の御とき征夷将軍弟麻呂にしたがひ、蝦夷を討て功あり。延暦二十年節刀をたまひ、陸奥の蝦夷を征伐し、廿一年陸奥国瞻澤城を築て蝦夷の押とす。夷酋その種類五百人をゐて降参す。弘仁二年五月二十三日卒す。年五十四。

※『寛政重脩諸家譜』巻第千五百三 坂上氏 田村

坂上田村麻呂は苅田麻呂(かりたまろ)の三男として天平宝字2年(758年)に誕生しました。

身長は五尺八寸(約176センチ)、胸板の厚さは一尺二寸(約36センチ)というムキムキ体格だったと言います。

胸板の厚さ、一尺二寸(イメージ)

体重は重い時で二百一斤(約121キロ)、軽い時では六十四斤(約38キロ)と自在に変えられたそうですが、これは俳優さんが役作りをするような感覚でしょうか。もしプロボクサーだったら、減量に苦労しなさそうですね。

その眼光は蒼隼(はやぶさ)のように鋭く、ヒゲは針金のようにゴワゴワで膂力にすぐれた豪傑でした。

第50代・桓武天皇の御代において大伴弟麻呂(おおともの おとまろ)の蝦夷討伐に従軍、大いに武功を重ねます。

延暦20年(801年)には自ら節刀(せっとう/せちのたち。官軍総大将の証として朝廷より預かる刀)を授かって陸奥の蝦夷を征伐、翌延暦21年(802年)には陸奥国胆沢(いさわ。岩手県奥州市)に城を築いて拠点としました。

田村麻呂の威徳に蝦夷の長らは相次いで降伏、その数は500人を超えたということです。

そして弘仁2年(811年)5月23日に54歳で亡くなったのでした。

坂上田村麻呂の祖先と子孫たち

後漢霊帝。画像:Wikipedia

さて、そんな坂上田村麻呂の祖先を遡ってみると、その13代祖先は後漢王朝の霊帝(れいてい。第12代・劉宏)だと言うのです。

【田村氏略系図・前編】

……後漢霊帝-延王-石秋王-英智使主(あちのおみ。日本に帰化)-都加司主(つかのおみ)-志努直(しぬのあたい)-駒子直(こまこのあたい)-弓束直(ゆつかのあたい)-首名直(をぶとなのあたい)-老子麻呂(おゆこまろ)-大国(おおくに)-犬養(いぬかい)-苅田麻呂-田村麻呂……

※『寛政重脩諸家譜』巻第千五百三 坂上氏 田村

中国四大伝奇小説『三国志演義』で有名な霊帝。その曾孫にあたる英智使主が日本へ渡り帰化したと伝わります。

しかし霊帝の男児は確か第13代・少帝(しょうてい。劉弁)と第14末代・献帝(けんてい。劉協)のみではなかったでしょうか。もしかしたら落胤などいたのかも知れませんね。

ともあれ田村麻呂以降も存続した坂上氏は、田村麻呂の玄孫に当たる古哲(こてつ)の代から田村氏を称しました。

【田村氏略系図・後編】

田村麻呂-清野(きよの)-内野(うちの)-顕麻呂(あきまろ)-田村古哲(こてつ。田村を称す)-田村顕谷(あきたに)-田村平顕(ひらあき)-田村友顕(ともあき)-田村忠顕(ただあき)-田村吉顕(よしあき)-田村家顕(いえあき)-田村実顕(さねあき)-田村長顕(ながあき)-田村朝顕(ともあき)-田村行資(ゆきすけ)-田村兼顕(かねあき)-田村政顕(まさあき)-田村則顕(のりあき)-田村光顕(みつあき)-田村綱顕(つなあき)-田村輝定(てるさだ)-田村家吉(いえよし)-田村満顕(みつあき)-田村持顕(もちあき)-田村直顕(なおあき)-田村盛顕(もりあき)-田村義顕(よしあき)-田村隆顕(たかあき)-田村清顕(きよあき)-田村宗顕(むねあき。断絶)

※『寛政重脩諸家譜』巻第千五百三 坂上氏 田村

田村麻呂から数えて29代目、戦国武将・田村宗顕の時に一度絶えてしまった田村家。

奥州の名門が消え去ることを惜しんだ松平宗良(まつだいら むねよし。伊達宗良)が家督を相続して後世に受け継いだのでした。

終わりに

菊池容斎『前賢故実』より、坂上田村麻呂。傍らに桓武天皇が弘仁年間に(田村麻呂の死に臨んで)詠まれた御製が記されている。

弘仁帝御製田村麻呂傳

張将軍(張良)の武略、まさに轡を按じて前駆くべし。簫相国(簫何)の奇謀。よろしく鞭を執りて後に乗ずべし。

【意訳】漢の高祖・劉邦(りゅう ほう)を補佐した張良(ちょう りょう)のごとき武略をもって、先鋒を務めた。また同じく簫何(しょう か)のごとき智謀をあらわし、鞭を奮って勝利をつかんだ。

【田村氏略系図・続編】

田村宗顕……田村宗良(松平・伊達宗良)-田村建顕(たけあき)-田村誠顕(のぶあき)-田村村顕(むらあき)-田村村隆(むらたか)-田村村資(むらすけ)-田村敬顕(のりあき)……

※『寛政重脩諸家譜』巻第千五百三 坂上氏 田村

江戸時代を生き延びて、幕末明治大正以降も家名を受け継いだ田村一族。その誇りは今も人々を魅了し、古代へのロマンを掻き立ててくれます。

史料や文献が少ないためか、歴史ファンからもあまり注目されない古代史。坂上田村麻呂を主人公にした大河ドラマなど、ぜひ実現して欲しいものです。

※参考文献:

  • 『寛政重脩諸家譜 第8輯』国立国会図書館デジタルコレクション
角田晶生(つのだ あきお)

角田晶生(つのだ あきお)

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