安土桃山時代

「鬼島津」と言われた薩摩藩には強さの秘密があった?!

島津家
今、NHKで放映中の「西郷どん」、彼を導いた師が「島津斉彬」(渡辺謙さん役)。この島津家には底知れぬ強さがあった。

他国から「鬼島津」と呼ばれ、豊臣秀吉でさえ「敵に回してはならない」ともらした程「島津家」は、恐れられれていた。
何故、九州の最果ての「島津家」がこんなにも、恐れられていたのか?その秘密を調べてみた。

島津藩「負けない国」と人材育成の秘密

徳川政権期、南九州に一大勢力を誇った島津氏と薩摩藩。明治維新の原動力ともなった強さの要因は様々あるが、中心となるのは厳しい風土を逝き抜く人づくりと、その人望を活かした防衛体制づくりである。

「日新齊」の号で知られる島津 忠良(しまづただよし)は有名な島津四兄弟の祖父であり、子の島津 貴久が本宗家を継いだ後も、実権を掌握し続け、島津発展の基盤を築いた。一族の団結を唄った「いろは歌」の創作者でもある。では、その「いろは歌」とは、どんなものだったのであろうか?

その一部を記述してみる


いにしへの道を聞いても唱えても、我が行に せずばがひなし
(昔の賢者の教えを唱えるだけでは、何も役にたたない。実践・実行する事が最も大事な のである)


楼の上もはにふの小屋も住む人の心にこそは 高きいやしき
(立派な家に住んでいようと、粗末な小屋に住んでいようとそれで人間の価値が決まるわけではない。心の在り方で、真価が決まるのだ)


はかなくも明日の命を頼むかな 今日も今日と 学びをばせて
(明日の事は誰にも解らない。勉学・修行を明日に延ばし、もし明日に延ばし、もし明日、自分が死んだらどうするのか。今この時を大切にすべきである。)


似たるこそ友としよけれ交わらば 我にます人 おとなしき

(人は自分と似た人と友になるが、それでは進歩は望めない自分より優れた見識を持つ者を友とし、自己研さんすることが肝心だ。)


仏神他にましまさず人よりも 心に恥じよ 天地良く知る
(仏神はどこにでもいる。恥ずべき行いをしたら、自らの良心に恥じよ。天地神仏は、あなたの全てを見通している。


下手ぞとて我と許すな稽古だに つもらばちりも やまとことのは
(下手だと卑下して努力を怠ってはならない。精進すれば少しづつ進歩して、上手くなれる。塵も積もれば山となる。
(以下・・省略)

この歌は「薩摩藩魂」といっても過言ではないだろう。

御中教育

鹿児島独自の教育には「郷中教育」というものがあった。

郷中教育がいつ頃から始まったかは、先程説明した天文8年ごろに、さきがけとなる身体鍛錬の集団教育が始まったとも言われている。

豊臣秀吉の「朝鮮侵略」の際、薩摩から約1万人が、海外へ出兵する。
すると、残された少年たちの風紀が乱れるという事態になった。そこで島津藩の留守を預かる重臣・新納忠元は、この状態を憂いて、「噺相中(はなしあいじゅう)」という、自由に話し合い・切磋琢磨し合う場を作ったのである。これが「郷中教育」の始まりとも言われている。

「郷中」のシステム
・小稚児(こちご)6~10歳
・長稚児(おせちご)11~15歳
・二才(にせ)14~25歳
・長老(おんせし)妻帯の年長者

郷中のそれぞれの家が座元になり、学びの場を提供し年長者が指導者の役を務めたので、教育費はかからなかった。

ただし、その中で集団の規律を守ってゆくため、郷中の規則はかなり厳しいものとなった。

1、郷中は相団結して親睦を旨とせよ。
2、長幼の序を重んじよ。
3、親に口ごたえするな。
4、先輩の教えに背くな。
5、幼少のものを苦しめるな。
6、人の悪口をいうな。
(以下・・省略)

全部で25か条ほどあるが、どの郷中にも共通していたのである。これらのスゴイ所は、今でも共通する文面がいくつもあるという事と、いかにも「薩摩藩らしい」ものもある。

「刀を抜くな。抜いたら鞘におさめるな」=そこまでいったら自分で責任をとれ!!という事である。

「相手を斬ったら役人に捕まる前に、腹を斬れ。斬り損じたら自身を恥じて、腹を斬れ」
幕末・維新期に活躍した有名な薩摩人のほとんどが、どこかの「郷中」の出身であった。

幕末派閥一覧

ここで分かりやすく、当時の派閥と代表的人物をまとめてみる。

(攘夷派)

・外国人(夷)を退ける(攘)の意味。ナショナリズムの高揚の一つだったが、開国から富国強兵を経て外国との対等対話を目指す派閥

岩倉具視

下級公家の出身でありながら、反幕府派の大原重富らと共に日米修好通商条約への反対して名をあげる。大政奉還が起きると、薩長の2藩に倒幕の密使を下し、王政復興の
大号令案を奏上。徳川慶喜の辞官納地に成功する。

長州藩:高杉晋作・木戸孝允

吉田松陰が開いた「松下村塾」の門下生主導による攘夷派が大勢を占めた。アメリカ商船を単独砲撃するなど攘夷を強行すると、これが孝明天皇の不興を買い、8月18日の政変などにより京から排斥され、朝敵の汚名を着せられる。長州征伐でも敗れて苦境に陥る。
高杉晋作や伊藤博文が藩の実権を握ると勢威を回復。薩長同盟の助けもあり、第二次長州征伐で幕府軍を撃退。

(討幕派)

・幕末に生じた国難を幕府解体という形で解決しようとするもの。幕府に長く敵対した長州藩はその代表格で、次代の先駆けとなった「坂本龍馬」もその一人。

薩摩藩:島津久光・大久保利光・西郷隆盛

公武合体、武備開国を唱えた第11代藩主:島津斉彬が若くして亡くなると、庶弟:久光が実権を握る。兄:斉彬と同様に公武合体を推し進めようと図り、何度も上京。
8月18日の政変で成果はあげたものの、一ツ橋(徳川)慶喜と意見が折り合わなかった。

大久保利光や西郷隆盛らが長州藩を始めとする各藩への連携を図り、武力討幕へ傾いていく。

坂本龍馬

勝海舟・西郷隆盛らと交流し「薩長同盟」に尽力。土佐藩の後藤象二郎に「大政奉還」を献策するなど活躍する。

日本の「夜明け」を覗きかけたが、京都・近江屋で暗殺された。

(開国派)

・日米和親条約に端を発する開国手続きを受け入れ、貿易などによる富国策を推し進める。政策論。攘夷運動により停滞したものの、明治新政府により開国に至る。

井伊直弼

老中:松平忠固らとともに開国主義を推し進め、大老に就任すると日米修好通商条約に調印。これに反発した各藩主や吉田松陰らを罰し(安政の大獄)桜田門外の変で横死。

徳川慶喜

一橋家時代に横浜鎖港を強硬に訴えるも、将軍就任以降は横須賀製鉄所を設立するなど開国体制を勧めた。

大政奉還により徳川家主導継続を図るが、岩倉具視の画策により失態。

(佐幕派)

・幕府の存続を図り「佐ける」の意味。孝明天皇のように藩主の象徴でありながら、佐幕意思を示した者もいるが、多くは幕臣や東国諸藩であった。

会津藩:松平容保

藩祖:保科正之の遺訓を守り、佐幕派の中心人物となった。孝明天皇の信頼のもと、公武合体の主権を担い、京都守護職に就任。

薩摩藩の島津久光とともに攘夷派の急先鋒長州藩を京都から排除する。戊辰戦争では「朝敵」とされた事により恭順派から一転、
奥羽越列藩同盟の中心となるも、力及ばす降伏した。

新選組:近藤勇

会津藩預かりの身で京都の警護にあたり、池田屋事件で尊王攘夷派の武士を殺害した事で、名を高めた。

後に幕臣に取り立てられ、戊辰戦争では、旧幕府軍に従って江戸・会津・函館を転戦した。

このように(攘夷・鎖国派)(討幕派)と(開国派)(佐幕派)とそれぞれに思想が絡まり合いながら日本は大きく変貌していくのだった。

島津家は斉彬存命の時と庶弟:久光の時代とでは、少しづつ思想も変わっていくのである。

戦国史上屈指の撤退劇「智」の島津家

時代は遡るが、天下分け目の「関ケ原の戦い」が一触即発だった頃。
島津義弘はこの時、家康から「伏見城」の守備を依頼された。義弘は承諾し、「伏見城」入城を申し入れるが、城の留守居:鳥居元忠は、家康からそんな話は聞いていないと、これを拒否する。

その間に石田三成が挙兵し、西軍4万人の中に孤立することとなり、義弘は考えあえいだ末に真田幸村親子同様、三成方(西軍)に味方することにしたのである。

1000ほどの戦力で、関ケ原に挑む事になるが、そんな中でも義弘を喜ばせたのは、甥の豊久の合流だった。

関ヶ原の戦いの島津義弘陣跡 (岐阜県不破郡関ケ原町)wikiより

奮闘を誓った義弘だったが、わずかな手勢だった為に石田三成に軽視されたと言われている。二次的史料であるが一説には家康軍への夜襲計画を献策すると、三成に「田舎戦法だ」と、一蹴されたという。

義弘と豊久は三成(西軍)の一員として戦意は失われていくが、「家康:東軍」に今更寝返るわけにもいかず、ただ自分達の戦をしようと、思い定めたのである。

そして決戦の火ぶたが切って落とされた。
島津家の周りでは、激戦が続くが「島津軍」は全く動かない。
そして「三成:西軍」不利明確になった時に、初めて腰をあげ、混乱のど真ん中への突撃をした。多くの犠牲・屍を超えて、徳川軍の中央突破をした島津。
捨てがまり」という島津家、独特な戦法(数人残り、打ちやぶれるとまた残る)をとり、主君である義弘を守ったのである。
「なんとしても家に帰られよ。それがしがしんがりを務めます」と言った島津豊久の声に家臣は答えたのであった。

島津家 の強さの秘密

1、命知らずの、決して恩を忘れない武人の育生
2、島津豊久の存在
3、島津家代々の「いろは歌」と郷中教育
4、島津斉彬の先見の明

この4つが島津家の強さの秘密である。
ちなみに「島津豊久」の武勇伝はマンガ「ドリフターズ」にも描かれ「豊久は実は関ケ原で討ち死にせず、無事に生還したのではないか」という説も存在している。

関連記事 :
戦国時代の島津氏
鎌倉時代から室町時代までの島津氏
幕末の薩摩藩と島津氏
島津斉彬と西郷隆盛の出会いについて調べてみた

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