幕末明治

江藤新平【明治新政府の汚職に挑むも最期は刑死】

司法制度に貢献

江藤新平

※江藤新平の肖像

江藤新平(えとうしんぺい)は、「維新十傑」にも数えられ、更に出身地の佐賀では「七賢人」とも称された人物です。

明治政府では主に司法制度の整備に尽力して、イギリスやフランスへ倣った三権分立を唱えました。

しかし当時の明治政府内では、プロイセン(後のドイツ)を範とした保守派が多数を占めていたことから激しい非難に晒されました。

また、長州出身の山縣有朋井上薫ら新政府内の幹部に対する汚職の追求を行ったことで、薩長閥の中心であった大久保利通との確執を招き、これが江藤の命取りになました。皮肉にも最期は反乱の首謀者として、かつて自らがその整備に尽力した司法制度の下、処刑される運命を辿ることになりました。

脱藩と謹慎

江藤は、天保5年1834年)に肥前・佐賀藩士の下級武士である江藤胤光の長男として生まれました。

嘉永元年(1848年)に藩校・弘道館へ入ると成績は優秀でしたが、父・胤光が役を解かれたことで一家の生活は困窮したと伝えられています。

それでも江藤は、安政3年(1856年)の22歳の時点でこれからの時代、開国が必要であることを『図海策』として執筆してその非凡な才を発揮しました。
この後、江藤は藩の洋式砲術、貿易関係の役職を務めましたが、文久2年(1862年)28歳のとき脱藩して京に上りました。

ここで長州の桂小五郎(木戸孝允)や公家の姉小路公知らの知己を得て、一旦帰郷しました。

この当時、脱藩は死に値する罪でしたが、江藤の才を惜しんだ主君・鍋島直正によって無期限の謹慎で済まされたと伝えられています。

戊辰戦争への従軍

※戊辰戦争 戦線の変遷 wikiより

江藤は、大政奉還が行われた慶応3年(1867年)12月には先の蟄居処分を解かれました。

王政復古の大号令で明治新政府が成立した際には、佐賀藩から副島種臣とともに京都へと派遣されました。

この後の戊辰戦争では、江藤は東征大総督府軍監の任命を受けて江戸へと向かいました。西郷隆盛と勝海舟の会談で江戸城の無血開城が行られた際には、江藤は城内の文書類を接収する任に当たりました。

旧幕臣を中心とした彰義隊が江戸に残っていた事に関しては、大村益次郎とともに武力鎮圧を主張して自らも従軍しました。

江藤は彰義隊勢を寛永寺周辺に追い込み、佐賀藩が所有していた最新式の大砲アームストロング砲を駆使して鎮圧を成功させました。

政府内保守派との対立

江藤は、新政府において会計局判事に任命されて、民政や会計、財政、都市問題などの行政問題を担いました。

このとき江藤は江戸の名称変更を献言し、これが採用され明治天皇が行幸したことで江戸は東京へと改称、日本の首都となりました。

江藤は、明治4年(1871年)2月には制度取調専務となって国家機構の整備にあたり、明治5年(1872年)には司法卿となりました。殊に司法制度の整備、司法職務制定、裁判所の建設、民法の編纂、国法の編纂などに尽力しました。

江藤は、官吏の汚職も厳しく接し、長州の山縣有朋が関与したとされる山城屋事件や、井上馨が関与したとされる尾去沢銅山事件などについてその責任を追及し、新政府内での予算配分を巡る対立とも絡んで、2人を一時的に辞職させるに至りました。

江藤のこうした汚職に対する姿勢や、三権分立の提唱等は政府内の保守派との深刻な対立を生み、やがて大久保利通との抜き差しならぬ対決を迎えることに繋がりました。

大久保の策略

※大久保利通

江藤は、明治6年(1873年)の征韓論問題に端を発した政変で、西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・副島種臣と共に10月24日に下野して、故郷・佐賀への帰郷を決めました。

この決定に対して同じく下野した板垣・後藤らから、その行為は大久保利通の策略に陥る危険性を指摘されましたが江藤はこの忠告を聞かず明治7年(1874年)1月13日に船で九州に向かい、2月2日に一旦長崎に入って様子を窺っています。

しかし、板垣らの忠告通り、大久保は江藤が東京を離れた1月13日には佐賀討伐のための総帥となって参内し、未だ反乱の起きていない2月5日に、既に佐賀に対する追討令を受けて、江藤を逆族として葬る算段を整えていました。

暗黒裁判

※『皇国一新見聞誌 佐賀の事件』 佐賀の乱の浮世絵

江藤は、明治7年(1874年)2月11日に佐賀へと入り、翌2月12日には佐賀征韓党首領となりました。

そして2月16日の夜ついに武装蜂起して士族反乱・佐賀の乱が発生しました。

当初は優位にあった反乱軍でしたが、大久保の率いる部隊が上陸してくるとそれら政府軍の圧倒的な火力に敗走を余儀なくされました。

江藤は鹿児島に逃れ西郷にも決起を要請しますが拒否され、さらに高知へと逃れたところを捕縛され、佐賀へと送還されました。

江藤は同年の4月8日、急遽設けられた佐賀裁判所で司法省時代の部下にあたる河野敏鎌の裁きを受けました。

結果、河野は江藤を取り調べはしたものの、江藤自身に釈明の機会もほとんど与えない形だけの裁判によって死刑を宣告しました。

こうして江藤は4月13日に刑を申し渡されると、同日夕方には嘉瀬刑場において処刑されました。

 

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