江戸時代

『大奥や大名家の女性59人を抱いて死刑』 モテすぎた僧侶・日潤が起こした「延命院事件」

「延命院事件」

画像:延命院の僧・日潤と奥女中(豊原国周)public domain

仏教には「女犯」(にょぼん)という言葉があります。

日常的に聞かない言葉ですが、原則として女性との関係を断たなければならない僧侶が、戒律を破って女性と関係を持ってしまうことを指す言葉です。

一説によると原始仏教以来「女性は不浄である」と考えられていたため、僧は女性を見る・話すなどのみならず、肉体関係を持つことは戒律で禁じてられていました。

ところが江戸時代、その戒律などものともしない僧侶がいたのです。

何と60人近い女性と関係を持ち、戒律を破りまくった日潤(にちじゅん ※日動とも)というイケメン僧侶がいたのです。
そして日潤は、お江戸八百八町が大騒ぎとなったスキャンダル「延命院事件」を引き起こしました。

いったいどのような事件だったのでしょうか。

超絶イケメン僧侶に、町娘も人妻も奥女中も夢中に

「延命院事件」

画像:舞台となった「延命院」wiki c

一大スキャンダルの舞台となったのは、東京都荒川区にある日蓮宗の寺院・延命院(えんめいいん)です。

寺伝によると

江戸初期慶安元年(1648年)、後の徳川幕府第四代将軍・徳川家綱の乳母・三沢局が開基となり、七面大明神を守護する別当寺として日長により、新堀村(現在の日暮里)に開創されました。

とあります。

寛永17年(1640年)僧侶の日長が家綱の出生の無事を祈祷し、翌年に家綱が誕生したことを受けて建立が許され、以来幕府・御三家の奥向きから篤い尊崇・庇護をうけ大盛況となりました。
しかし元禄以降にはその勢いは衰えていったそうです。

それから150年近く経過した寛政8年(1796)頃、日潤(にちじゅん)という僧侶が住職になったことから、延命院はがらりと雰囲気が変わったのです。

というのも、その日潤は類稀なる美男子、つまり「超絶イケメン」だったうえに、心奪われるほどの美声、「超絶イケボ」だったのです。

日潤は歌舞伎役者・尾上菊五郎の息子で、子ども時代は父と共に舞台に立っていたという噂もあります。(日潤が美貌ゆえ、尾鰭が付いた嘘だと否定する説も)

ところがなぜか二十歳の頃に出家、日蓮宗中山派に入門して延命院の住職になったのです。

見た目が息を呑むほど美しいうえに、うっとりとするほどの美声だった日潤は、現代のスーパーアイドルのような存在だったのでしょう。
彼の説教や祈祷を見たい聞きたいと、足繁く延命院に通う女性ファンは日に日に増え、延命院は押せや押せやの大盛況となっていきました。

そんな日潤の噂は噂を呼び、町娘や人妻、さらには御三家・諸大名・大奥の奥女中に至るまで、身分や階級に関係なく、多くの女性が昼夜を問わず延命院に訪れるようになったそうです。

あまりに乱れた延命院に、密偵が送り込まれる

「延命院事件」

画像:「延命院日当話」延命院の日潤(月岡芳年)public domain 隠し部屋に行き来するところなのか…

当時、江戸城大奥勤めの奥女中は基本的に外出禁止でしたが、肉親の病気見舞い・葬儀や、御台所や将軍生母の「代参」として寺社に参詣するのは許されていたそうです。

「信心のため」という名目を付けて、連日のように女性たちが延命院に通い詰めていることが噂となり、とうとう寺社奉行・脇坂安薫(わきさかやすただ)の耳に入ってしまいます。

若くして寺社奉行に抜擢され「江戸の智恵頭」とも呼ばれていた切れ者の脇坂安薫は、「延命院で一体何が起きているのか?」と不審に思い、家臣の妹に奥女中の扮装をさせて「内部を探ってくるように」と命じ、密偵として延命院に送り込みました。

彼女は身を挺して日潤に近づき何回か関係を持ち、徐々に延命院の内情を探っていったのです。

そして、寺に訪れる奥女中・旗本の夫人などを雑用係の僧が手引きをしていること、お堂内部に「隠し部屋」や「抜け道」などが存在すること、訪れる女性たちはみな日潤と関係を結んでいたことを突き止め、証拠となる「艶書(えんしょ)※恋文」なども確保することに成功しました。

延命院で繰り広げられているあまりに乱れた狂宴と、呆れるほどの日潤の「女犯」ぶりに、脇坂安薫は摘発に乗り出します。

そして、享和3年(1803)5月22日の早朝、「通夜参籠」の最中に、脇坂安薫ほか多数の部下たちが踏み込みました。

そのとき捕えられたのは、日潤はもちろんのこと、加担していた坊主たち、他数十名の女性たちでした。

日潤が関係を持った女性は59人!

画像:「延命院日当話」延命院の日潤(月岡芳年)public domain 寺の隠し部屋で日潤を待つ女性…

寺社奉行所へ連行された日潤には、長時間に渡る尋問が行われました。

その結果、日潤は「下は10代から上は60代まで、大奥の奥女中や商家の娘など59人もの女性と関係を持った」と白状したのでした。中には妊娠したので薬を与えて堕胎させた女性もいたそうです。

当時、「女犯」への罰は「島流し」が一般的でした。
ところが日潤の場合はあまりに多数の女性との関係、隠し部屋を設けるなどの用意周到さ、身分ある女性との密通、堕胎など、いくつもの悪事を重ねていたために「死罪」を言い渡されたのです。(大奥の奥女中が多数関係していたために、この醜聞が広まる前に死罪にしたという説も)

日潤と関係が判明した大奥や大名家の女中たちは、罪を不問にされた者もいましたが、追放されて武家奉公禁止、一生座敷牢に幽閉、無期限自宅謹慎、夫に知られ自害など……その末路はさまざまでした。

延々と語り継がれ、作品となる

画像:船遊びをする大奥の女中たち(豊原周延)public domain

大奥も巻き込んだ一大スキャンダル「延命寺事件」は、江戸中で大騒ぎとなり、『観延政命談(かんえんせいめいだん)』として小説にもなりました。

元幕府奥右筆に侍奉公をしていた品田群太が、この一連の騒動を16冊の書物にし、貸本屋に売却・回覧していたのですが、文化2年(1805)に発覚し、本人や関係者は罰せられてしまったそうです。

大奥女中と日潤の前代未聞のスキャンダルが、お上の忌諱に触れた……ということなのでしょうか。

また明治11年(1878)には、河竹黙阿弥が歌舞伎『日月星享和政談義(じつげつせいきょうわせいだん)』として舞台化、5代目尾上菊五郎が主演を務めました。

昭和に入っても、この日潤のスキャンダルは語り継がれ続け、有名俳優が演じる映画になったり小説で描かれたり、多くの作品が残っています。

さまざまなスキャンダルが渦巻く現代の視点から見ても、この出来事は今だに驚愕する事件でしょう。

参考資料
▪︎日本仏教における僧と稚児の男色 国際日本文化研究センター
▪︎Imidas 時代劇用語指南「寺社奉行」

 

桃配伝子

桃配伝子

投稿者の記事一覧

アパレルのデザイナー・デザイン事務所を経てフリーランスとして独立。旅行・歴史・神社仏閣・民間伝承&風俗・ファッション・料理・アウトドアなどの記事を書いているライターです。

神社・仏像・祭り・歴史的建造物・四季の花・鉄道・地図・旅などのイラストも描く、イラストレーターでもあります。

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 本居宣長 〜古事記を解読し日本人の心の原点を探る 「もののあは…
  2. どこまでも真正直な姿に心打たれ…雲居和尚と山賊兄弟のエピソード【…
  3. 石川数正はなぜ家康を裏切ったのか? 【5つの説】 後編
  4. 江戸時代の庶民はどうやって暇つぶしをしていた? 「泰平の時代」
  5. 名古屋を大発展させた大名・徳川宗春 【暴れん坊将軍吉宗のライバル…
  6. 巌流島の決闘の真相 後編 「宮本武蔵は遅刻をしなかった?」
  7. イギリス人の侍・三浦按針 「家康に仕えたウィリアム・アダムス」
  8. 長野主膳 〜井伊直弼の政策を立案し実行した腹心

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

劉備の旗揚げから苦楽を共にした「古参の悪友」簡雍はかく語りき【三国志】

私事で恐縮ですが、筆者(角田)はよく苗字を「かくた」と読み間違えられてしまいます。あるいは「すみだ」…

ダーウィンの「種の起源」と優生学

「種の起源」の影響かつて1900年代の初頭には世界各国で隆盛を誇ったものの、現在では否定され…

【国王すらひれ伏した幼き予言者】クマリとは ~ネパールの生き女神

ネパールには「クマリ」という生きた女神が住んでいる。女神として選ばれた少女は、幼くし…

【大河予習】犬猫までも斬り捨てよ!武田勝頼を滅ぼした織田信長の大号令と、武田再興を図った徳川家康【どうする家康】

時は天正10年(1582年)3月11日。甲斐国天目山(山梨県甲州市)で武田勝頼(演:眞栄田郷敦)とそ…

失敗や偶然から生まれた大ヒット商品 「柿の種、とんこつラーメン、ポテチ、付箋、防水」

有名な食べ物や身近な物の中には、意外にも失敗や偶然から生まれたものもある。今回はそのような5…

アーカイブ

PAGE TOP