西洋史

【ロシア初の女帝】 エカチェリーナ1世のシンデレラストーリー 「農民から皇帝に」

ロシア王朝の女性君主といえば、啓蒙専制君主として知られるエカチェリーナ2世が有名である。

しかし彼女の前に「初の女性君主」が居たことはあまり知られていない。

歴史にエカチェリーナ1世として名を残した彼女は、初代ロシア皇帝・ピョートル1世の2番目の妻でありながら元々は農民の出でありロシア人ですらなかった。

卑賤な生まれから皇帝にまで上り詰めた彼女の人生は、正に波乱万丈なものであった。

生い立ち

エカチェリーナ1世

画像 : エカチェリーナ1世 public domain

エカチェリーナ1世の本名はマルファ・サムイロヴナ・スカヴロンスカヤと言い、 1684年に生まれたとされているが出生地と幼少期に関する正確な情報は残っておらず、いくつかの説が存在する。

最も一般的な説としては「リトアニアの農民の家庭で生まれた」というものである。

12歳の時にドイツ人牧師の家で使用人として働き始めたマルファはそこでドイツ語を教わった。マルファは働き者で明るく活発な性格の少女だったという。

17歳の時にスウェーデンの竜騎兵であるヨハン・クルーゼと結婚したマルファだったが、結婚式からわずか数日後に夫は出征しそのまま行方不明となる。そして1702年、スウェーデンとの戦いでロシア軍がマリーエンブルクを占領した際に、マルファは捕虜となった。

彼女は陸軍元帥であったボリス・シェレメーテフの元に連れていかれ、洗濯婦として働くこととなった。しかし元来明るい性格のマルファは挫けることはなかったという。

その後マルファはピョートル1世の寵臣、アレクサンドル・メーンシコフへと引き渡され、そこでも洗濯婦として働き、同時期にメーンシコフの愛人となったのではないかとされている。

ピョートル1世との出会い

エカチェリーナ1世

画像 : ピョートル1世 public domain

ピョートル1世とマルファは1703年、ピョートル1世がメーンシコフ家を訪問した際に出会ったとされている。

ピョートル1世は明るく快活な雰囲気で周りの人を楽しませるマルファを気に入り、すぐに彼女を愛人とした。一方でマルファも農民の出という生い立ちを決して見下すことのなかったピョートル1世に惹かれ、二人は1707年に秘密結婚を執り行った。

ピョートル1世はマルファを妹が住むプレオブラジェンスコエ村へと送り、ロシア語の読み書きや宮廷でのマナーを学ばせた。 マルファは正教会の洗礼を受け、名前をエカチェリーナ・アレクセーエヴナへと改め、1712年にはピョートル1世と正式に結婚した。

エカチェリーナとピョートル1世との間には12人もの子供が産まれたが、アンナエリザヴェータの娘2人を除き全員が幼少期に亡くなった。後にエリザヴェータはロマノフ朝第6代のロシア皇帝となり、エリザヴェータの死後はアンナの子孫がロシアを統治することになる。

ピョートル1世とエカチェリーナの絆は非常に強く、エカチェリーナはピョートル1世の地方視察には常に着いて行き、二人が交わした手紙も多くが現存している。彼女は常にピョートル1世の側に付き添い、戦場においても離れようとはしなかった。

ピョートル1世は非常に苛烈な性格の持ち主だったが、エカチェリーナはそんなピョートル1世の癇癪を宥めることのできる唯一の女性だったという。

1724年、ピョートル1世はエカチェリーナを皇后として戴冠させ共同統治者としたが、翌年の1725年に亡くなった。

エカチェリーナ1世の統治

画像 : エカチェリーナ1世 public domain

ピョートル1世が直接後継者を指名せずに亡くなったため、最初の妻との長男であるアレクセイの息子、ピョートル・アレクセーエヴィチを推す派閥と、エカチェリーナを推す派閥との間で争いが勃発したが、近衛部隊が元老院を押さえる形でエカチェリーナが即位した。

エカチェリーナ1世はロマノフ王朝第2代皇帝として即位し、ロシア初の女性統治者となった。

しかし、実際の権力は元愛人であるメーンシコフと最高枢密院が握ることとなった。

画像 : アレクサンドル・メーンシコフ public domain

エカチェリーナ1世は国を治める能力が高いとは言えず、大抵の公務はメーンシコフやその側近達に任せきりとしていた。エカチェリーナ1世自身も統治には対して興味を示さず、毎晩のように宴会を開いては翌日の昼すぎに起きるという生活だった。

この不健康な生活習慣が、晩年の体調不良の原因だとされている。

一方でエカチェリーナ1世は慈悲深く、他者への支援と助力を惜しまない性格だったため市民達からの評価は良いものだった。彼女の元には常に「我が子の名付け親となって欲しい」と願う市民達が押し寄せ、エカチェリーナ1世は喜んで命名を行っていた。

結局エカチェリーナ1世の治世は長くは続かず、僅か2年ほどのものだった。1725年のロシア科学アカデミー創設と1726年の神聖ローマ皇帝カール6世との同盟以外に目立った功績は残さず、国の財政状況は悪化の一途をたどることとなった。
しかし大きな争いが起きることもなく、国民にとって彼女の治世は安寧なものであった。

エカチェリーナ1世は1727 年の5月17日に43歳で亡くなった。

彼女は娘であるエリザヴェータに皇帝位を継がせたいと考えていたが、貴族達の反対によりピョートル・アレクセーエヴィチがピョートル2世として即位した。

洗濯婦として捕虜先で働き、最後には一国の皇帝にまで上り詰めた彼女の人生は、まさにシンデレラストーリーそのものだったといえるだろう。

参考文献 : ピョートル大帝の妃: 洗濯女から女帝エカチェリーナ一世へ(著:河島 みどり)

 

アバター

草の実堂編集部

投稿者の記事一覧

草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Audible で聴く
Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. アレキサンダー大王の大遠征について調べてみた
  2. 中世の騎士について調べてみた
  3. 黄金の国「ジパング」とは岩手県のことだった説 ~後編 【コロンブ…
  4. 「パリの地下に広がる死の帝国」 カタコンブ・ド・パリ 【2.60…
  5. 【アレクサンドロス大王の遺産】 若き王の遠征がもたらした 「ヘレ…
  6. なぜ第一次世界大戦は起きたのか? 「国民国家」という暴力装置
  7. 【第二次世界大戦の原因?】1929年の「ウォール街大暴落」と「世…
  8. 太陽神アポロンについて調べてみた【ギリシア神話】

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

外国人が理解しやすい「やさしい日本語」とは

グローバル化が進む日本近年、日本にも多くの外国人が仕事や留学、結婚などの理由で移住してき…

【聖剣エクスカリバー】アーサー王伝説について調べてみた

魔力を帯びた剣「エクスカリバー」を手に、祖国ブリテンを守った英雄の物語。しかし、アーサー王伝…

【どうする家康】 家康の今川からの独立から遠江獲得まで流れを改めて見る

NHK大河ドラマ「どうする家康」もついに大坂の陣編へと突入し、物語はいよいよ佳境を迎えている…

【虎に翼】 寅子のモデル・三淵嘉子 「弁護士の仕事が激減した理由とは」

修習期間を終え晴れて弁護士となった寅子ですが、なかなか仕事にありつけません。寅子のモデル・三…

西郷隆盛が島流しになった理由について調べてみた

2018年、NHK大河ドラマ『西郷どん』の主人公・西郷隆盛。…

アーカイブ

PAGE TOP