イングランドとフランスの両国が、フランス王座とその領地を巡って争った「百年戦争」。それはイングランドの王エドワード3世がフランスの王位を要求した1337年に始まり、幾度かの休戦期間を挟みつつ、1453年まで続くこととなる。
1420年頃から始まった休戦期間ではイングランド側有利のトロワ条約が結ばれ、イングランド王ヘンリー5世とフランス王シャルル6世の娘が結婚し、その間に生まれたヘンリー6世がフランス王位を継ぐことが定められた。
しかし、当時のフランスの政治は乱れていたため、新たな火種を生むことになる。
フランス国内の主導権争いがイングランドの介入を許す
当時のフランスは、政治の主導権を争うブルゴーニュ派とアルマニャック派が激しく対立し、事実上の内乱状態にあったため、国を挙げてイングランドに対処することができなかった。しかもブルゴーニュ派はイングランドに接近し、その力を借りて国内の主導権争いを終結させようとしていたのである。
これに対し、アルマニャック派は、先王シャルル6世の息子であるシャルル王太子を支持して、イングランド陣営に対抗した。ブルージュに逃れていたシャルル王太子は「我こそがフランスの王」であると宣言したが、ブルゴーニュ派はこれを認めず、彼を「ブルージュの恥」と呼んで侮辱したのである。
※フランス王太子・シャルル7世
1428年10月、ブルゴーニュ派と結んだイングランドは4,000を超える軍勢により、アルマニャックの拠点であるオルレアンを包囲した。パリの南西約130kmに位置するオルレアンは、街道とロワール川の河川交通が交わる位置にあり、交通の要衝でもあった。
オルレアンの危機!
イングランドとしては、オルレアンを落とせば王太子とアルマニャック派が支配するフランス南部へと一気に侵攻できるはずであった。
イングランド軍は、オルレアンの周囲10ヵ所に砦を築き、大きな森が残る北東部以外をすべて包囲する。オルレアンの街は、東西を流れるロワール川の北岸にあり、南岸とは一本の橋でつながっていた。橋の南端は高い塔を持つトゥーレル砦が築かれていたが、イングランド軍はここも占拠し、包囲の環を完成させたのである。
※包囲戦のあった1428年-1429年のオルレアン
10月17日よりイングランド軍の砲撃が開始され、それにより街の被害は拡大していった。食料も不足し始めたことで1,000の守備兵の士気も下がり、街は絶望感に包まれたのだ。
奇跡の乙女・ジャンヌ
オルレアンでそうした状況が続いていた1429年3月、「オルレアンを解放し、フランスを救え」という神の声を聞いたという少女、ジャンヌ・ダルクが王太子に謁見を許された。最初は懐疑的だった王太子も自分しか知らない秘密をジャンヌが知っていたことに驚き、この少女の話を真剣に受け止めるようになる。
鎧や軍旗、従者を与えられたジャンヌの最初の任務は、ブロウに集結しているオルレアン救援隊と合流し、街に補給物資を届けることであった。ブロウに向かったジャンヌは、ジル・ド・レらに率いられた救援部隊と合流し、南側からオルレアン包囲網を迂回して、街へ物資を運び込むことに成功する。
奇跡の乙女「ジャンヌ・ダルク」は、街の人々から歓喜をもって迎えられ、補給と増援部隊を得た兵士たちもこの上なく士気を向上させたのであった。
※オルレアンに入るジャンヌ・ダルク (J.J. Sherer作、1887年)
ジャンヌ・フランス軍の先頭に立つ
ジャンヌには軍の指揮権は与えられていなかったが、5月4日から開始された守備隊による敵砦の攻略には率先して参加した。ジャンヌが旗を振りかざして軍勢の先頭に立つと、フランスの兵士たちは奮い立ち、これまでの無気力が嘘だったかのように、勇敢な兵士へと変貌する。
※オルレアン包囲戦でイングランドの要塞への攻撃を指揮するジャンヌ・ダルクを描いた15世紀の作品
彼らはわずか2日の間に、イングランド側の「サン・ルー砦」「サン・ジャン・ル・ブラン砦」、そして「オーギュスタン砦」を陥落させてしまった。5月7日からは、包囲の要となっている橋の南端のトゥーレル砦への攻撃が開始される。フランス軍は激しく攻めかかるが、敵もおびただしい矢を放ち抵抗してきたことで苦戦を強いられた。
それを見たジャンヌは、先頭に立って砦の壁に梯子を掛け、旗を持って登り始める。そのとき、敵の放った石弓の矢がジャンヌの肩を貫いた。
オルレアン 解放!
※オルレアン包囲戦におけるジャンヌ・ダルク。ジュール=ウジェーヌ・ルヌヴー作、1886年~1890年
ジャンヌは深手を負ったが、前線を離れようとはせず、応急処置をしただけで再び旗を手にして前線に赴いた。その姿を見て、彼女に魅了されたのがジル・ド・レら、フランス軍の将校たちである。さらに戦闘を中断して撤退しようとしていたフランス兵たちも、その姿を見ると再び奮起し、ついにはトゥーレル砦を陥落させたのであった。
この戦いにおけるイングランド軍の損失は甚大となった。1,000を超える兵士を失い、600名が捕虜となったのである。包囲網が崩壊したこともあり、イングランド軍は残りの砦を自ら破壊して後退したのだった。
ジャンヌが戦場に到着して、わずか9日でオルレアンは解放されたのである。
最後に
彼女が本当に神の使いであったのかはともかく、一人の少女が兵士たちを鼓舞し、勝利を呼び込んだことは紛れもない事実である。このオルレアンでの勝利をきっかけにフランス軍は盛り返し、ついにはイングランド軍を大陸から追い落とすことになるのだった。
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