西洋史

【ルターが信じた悪魔】 パプストエーゼル ~16世紀の宗教改革の背景とは

画像 : ルター public domain

マルティン・ルターという人物をご存知だろうか。

ルターは中世ドイツの神学者で、16世紀のヨーロッパで巻き起こったキリスト教の「宗教改革」の中心人物である。
彼の活躍は、カトリック教会からプロテスタントが分離する契機となった。

ルターは怒りに満ちていた。敬遠なる神の信奉者である彼にとって、当時の教会の腐敗ぶりは我慢ならざるものであった。

1523年、ルターは盟友のフィリップ・メランヒトンと共に、ドイツのヴィッテンベルクにて、教会への批判を込めた一冊の小冊子を出版した。

そこに描かれていた世にもおぞましき姿の怪物こそが、教皇驢馬(ロバ)・パプストエーゼル(Papstesel)である。

今回は、この悪魔的怪物の詳細について述べていこう。

1. パプストエーゼルとは

パプストエーゼル

画像 : パプストエーゼル wiki c Xavax

1496年、ローマのテヴェレ川に奇妙な死体が打ち上がったという。
それは一見すると、人間の姿形をしているように見えた。

しかし、その顔は驢馬(ロバ)のようであり、胸部には豊満な乳房が垂れ下がっている。
手と足にはビッシリと鱗がこびり付き、臀部には獣の耳を生やした老人の顔が浮き出ている。
尻尾の先端にはドラゴンの頭がくっ付いており、右手は象の蹄のようだった。

右足には牛の蹄。左足には猛禽類、あるいはグリフォンの鉤爪。
唯一人間の形を保ったままの左手が、かえって異物感を醸し出している。

生物学上、このような生物が存在しうるはずがなく、もちろんこれは創作された怪物である。

しかし、ルターとメランヒトンは反キリストの象徴として「この怪物の存在こそが神の啓示である」と、大々的に主張したのである。

当時は、「神が重大な出来事を予告するために、この世に奇妙な動物を送り込むことがある」と信じられていたのだ。

2. それぞれのパーツの意味

教皇驢馬パプストエーゼル

画像 : メランヒトン public domain

ここからは、メランヒトンによるパプストエーゼルの解説である。

驢馬の頭は、堕落したローマ教皇を意味する。
女の乳房や腹は、色欲にまみれた聖職者たちを指す。
体中の鱗は、ローマ教皇庁を絶対視する権威主義者たち、尻の老人はカトリック支配の終焉を、ドラゴンの尾は贖宥状(しょくゆうじょう)と教皇勅書を意味する。(※贖宥状と教皇勅書については後述)

右腕は教会による圧政を暗示している。象の蹄のように人々の心を押しつぶしているからだ。
人間の左手と牛の右足は神学者を、猛禽の左足は正典の主義者を象徴しているという。

メランヒトンは以下のように説いた。

このような怪物が現れたことこそが神の思し召しであり、もはや教会はアンチクライストの手に落ちたのだろう

パプストエーゼルは、当時のカトリック教会に対する皮肉と憎悪の集合体ともいえる存在となった。

しかし、ルネサンス期における教会の腐敗ぶりを考えると、このような風刺的な存在が現れるのは必然であった。
堕落したローマ教皇たちは「ルネサンス教皇」と揶揄され、特にアレクサンデル6世は「悪徳の教皇」としてその悪名を轟かせている。(歴史とは多角的なものであり、評価されている部分もある)

教皇驢馬パプストエーゼル

画像 : パプストエーゼルの尻尾部分 public domain

注目すべきは、ドラゴンの形をした尻尾だろう。
なぜドラゴンが、贖宥状(しょくゆうじょう)と教皇勅書を意味するのか?

まず、ドラゴンはキリスト教において悪魔的存在であり、かの大魔王サタンも蛇…すなわちドラゴンの姿で聖書のあちこちに登場している。

贖宥状は日本において「免罪符」と呼ばれるもので、ルターが宗教改革に乗り出す引き金となったものだ。
たかが紙切れ一枚で、あらゆる罪が許される…
聖書を絶対視するルターが、そのような蛮行を見逃すはずがなかった。

教皇勅書はローマ教皇による勅令である。
教会批判を続けていたルターは、ある時、教会からの勅書で主張の撤回を求められたが、彼はこの勅書を公衆の面前で焼き払ったのだ。

元々教会からは訝しく思われていたルターであったが、この出来事により教会との確執は決定的なものとなった。
1521年、ついにルターは破門され、カトリック世界から追放されたのである。

つまり、ルターにとって贖宥状と教皇勅書はサタンに等しいものだった。
ゆえにパプストエーゼルの尻尾に、そのような属性が与えられたとしても不思議なことではない。

3. メンヒスカルブについて

画像 : メンヒスカルブ public domain

この小冊子には、実はもう一体の醜悪な怪物が描かれている。

その怪物は贅肉で弛んだ体を持ち、虚ろな表情で佇んでいる。
名前はモンク牡牛(Munchkalb)、日本語では「メンヒスカルブ」もしくは「ミュンヒカルブ」と発音される。

ルターはメンヒスカルブについて、以下のように解説している。

この怪物の出現は、俗欲にまみれ腐敗しきった教会に対する神からの警告である

中世における堕落した聖職者たちの有り様を、的確に表現した存在だといえよう。

4. おわりに

パプストエーゼルやメンヒスカルブは、当時の教会の腐敗と堕落への強い反発から生まれた、創作上の怪物である。

ルターとメランヒトンがこのような怪物を用いた背景には、奇妙な動物が神からの警告や重要な出来事の前兆と信じられていた当時の宗教的な風潮があった。この風潮を利用することで、彼らは教会の堕落を強く批判し、宗教改革の正当性を訴えようとしたのだ。

こうしてパプストエーゼルやメンヒスカルブは、彼らのメッセージを広めるための強力な象徴となったのである。

参考 :
Texte en ligne de l’une des premières versions de 1523
世界妖怪図鑑 復刻版 著 佐藤有文

 

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草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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