シュタージとは
1950年、東ドイツにて設立された国家保安省Staatssicherheitの略称が シュタージである。
シュタージは東ドイツの秘密警察として主に対外諜報活動や自国民の監視を行い、設立からベルリンの壁崩壊までの約40年もの間、恐るべき監視社会を作り上げた。
最盛期には正規職員9万人以上及び数多くの非正規職員を抱え、まさしく国中に監視ネットワークを張り巡らせていたのである。
今回は、東ドイツ国民のみならず東西ドイツを震え上がらせた秘密警察「シュタージ」についてみていこう。
東ドイツの恐るべき監視社会
東ドイツは監視社会だったと言われている。なぜ徹底的な監視が行われたのか、それは反体制派弾圧のためであった。
シュタージは街中あらゆるところに監視カメラを仕掛け、民間人に対する盗聴まで行った。
その監視ぶりは徹底したもので、ゴミ箱やドラム缶、鞄や腕時計万年筆などという小物に及ぶまで、本当に至るところに監視カメラが仕掛けられていたのである。
うっかり政府に対する批判でもしようものなら、すぐに警察がやって来て収容所へと連れていかれてしまう恐るべき監視社会である。住民は街中で政治の話をすることもできない、ましてや資本主義を肯定するような発言などは絶対に許されなかった。
国家が犯罪者でも何でもない一国民に対し、これほどまでに徹底的な監視を行っていたというのだから驚きである。
もちろんこんな監視体制下では西側の情報を得るのも一苦労だ。だが、そんな過酷な状況にあってなお西側の情報を得ようと四苦八苦していた人々は決して少なくなかった。
アメリカの雑誌を引き出しの二重底の下に隠してこっそりと読んだり、アンテナの位置をずらして西側から飛んでくる電波を拾い、音を小さくして西側のテレビをこっそり見たりと、言動が制限される中でも人々はどうにかして西の情報を得ようと努力していたのである。
密告の奨励
シュタージは数多くの正規職員を有していたが、監視社会に多大な影響力を及ぼしたのは非正規職員の存在である。
非公式協力者とも呼ばれる彼らは、最終的には約18万9千もいたという。
非公式協力者、彼らは民間人による匿名の監視者であった。
公式的にはシュタージに属せず、彼ら一人一人の職場や環境から得られる情報を隠れてシュタージに提供していた。つまりは、職場の誰々という人間がこんなことをしていた、近所の誰々がこんなことを言っていたと身の回りの人たちの言動をシュタージに報告し、活動していたのである。
彼らの監視の対象は仲のいい友人であれば家族であることもあり、いわば非公式協力者の彼らが行う活動は身近な人物の密告であった。シュタージは親密な関係者同士による密告を奨励していたのである。
仲のいい友人が、職場の同僚がシュタージの協力者かもしれない。そんな恐怖と不安が人々の間では渦巻いていた。
非公式協力者の情報網は、間違いなく東ドイツにとって欠かせない監視システムの一つだったのである。
東西統一後
ベルリンの壁崩壊後、まもなくシュタージは解散した。
そして東西ドイツが再統一後を果たした翌年の1991年にはシュタージが保管していた膨大な機密文書が一般にも公開されることになる。しかし、機密文書の閲覧が可能になったことで初めて友人や家族がシュタージの協力者であったことを知った人も多かったという。
また、統一後に明らかになったのはそれだけではない。
シュタージに反体制派として目を付けられていた者は、生活の全てといってもいいほどのあらゆることを監視されていたのだ。個人的な会話から風呂を浴びているところ、性的なことに至るまで、全てを監視されていたことを人々は初めて知る。
シュタージ解散後に明らかにされた事実は、人々に新たな落胆と憤りを植え付けた。
シュタージが残す爪痕は、東西ドイツ再統一後も決して小さくはなかったのである。
最後に
東ドイツの秘密警察「シュタージ」
他国に対して諜報活動を行うだけではなく、自国民に対しここまで徹底的な監視体制を敷いていたとは俄かには信じがたい。しかしそれはほんの数十年前に実際にあった過去であり、シュタージの存在は今なお人々の心に色濃く残っている。
当時シュタージの本部として使われていた建物は現在博物館となっている。そこに展示されているのは実際に使われていた隠しカメラや盗聴器、密告者などの記録である。
シュタージが一体どのようにして監視を行っていたのか、その徹底ぶりに思わずゾッとするのではないだろうか。
もしもベルリンを訪れる機会があるのなら、ぜひ一度訪れてみてほしい場所だ。
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