国際情勢

「世界一幸せな国」ブータンを侵食する中国による経済的侵攻

画像 : ブータンの位置 public domain

ヒマラヤの秘境、ブータン王国。

国民総幸福量(GNH)を提唱し、物質的な豊かさよりも精神的な充足を重んじるその姿は、かつて世界中から「最後の桃源郷」として羨望の眼差しを集めた。

しかし今、この平和な小国がかつてない緊張の局面に立たされている。

その背景にあるのは、北方に位置する大国・中国による執拗な経済的・領土的圧力である。

静かに進む国境線の書き換えと既成事実化

ブータンと中国の間には正式な国交が存在しない。

それにもかかわらず、中国は近年、ブータン北部の国境地帯において「サラミ戦術」と呼ばれる手法で着実に実効支配を広げている。

画像 : 北部が中国の領土にされる前のブータン。北部が北側に出ている。2006年より前の国境 public domain

衛星画像の解析によれば、ブータンとの係争地域において、中国側が道路や関連施設、さらには数百人規模の居住が可能とみられる集落を整備している様子が確認されている。

これは単なる国境紛争ではない。

中国が係争地で進めるインフラ整備は、インドとの戦略的要衝であるドクラム高地を含む三国接点周辺の軍事的均衡に影響を与え得るとの見方もある。

軍事的緊張と並行して進むこうした既成事実化の動きは、ブータンの主権と安全保障環境を静かに揺さぶっている。

観光とインフラを武器にした経済的依存の罠

中国の侵攻は物理的な土木作業に留まらない。ブータンの脆弱な経済構造を突いた経済的攻勢も加速している。

長年、ブータンにとって最大の支援国であり主要な貿易相手国はインドである(2023年の輸入に占めるインドの比率は約79.9%)。その一方で、中国製の格安スマートフォンや日用品、建設資材も一定量入り込み、中国の存在感がじわじわと増している。

また、かつては欧米や日本からの観光客が中心だったブータンの観光業にも、中国資本の影がちらつく。

コロナ禍以降の経済停滞に苦しむブータンにとって、観光や投資は重要な回復手段である。
外交関係の正常化を巡る協議が進む中、経済協力の拡大が交渉環境に影響を与える可能性も指摘されている。

一度でも中国の経済圏に取り込まれれば、借金漬けで港やインフラを奪われる「債務の罠」に陥るリスクは高いだろう。

画像 : ブータンの西部、1646年建設のパロ谷のゾン Jean-Marie Hullot CC BY-SA 2.0

「幸福の国」が直面する若者の流出と現実

皮肉なことに、中国の圧力が強まる一方で、ブータン内部の幸福の基盤も揺らいでいる。

近代化の波と物価高騰、そして失業率の上昇により、将来に絶望した若者たちがオーストラリアなどへ大量に移民する事態となっている。

中国はこの国内の疲弊を好機と見ている。若者の流出で空洞化した地域に、中国資本がインフラ整備の美名の下に入り込む隙が生まれているのだ。

伝統文化の保護と環境守護を掲げてきた幸福の国のアイデンティティは、中国の巨大な資本力と膨張主義という冷酷な現実の前に危機に瀕している。

国際社会は、この小さな王国が飲み込まれていく現状を看過してはならない。

ブータンの自由が失われることは、ヒマラヤ地域の軍事的バランスが崩れるだけでなく、我々が理想とした「精神的豊かさ」という価値観そのものが、強権的な資本力に敗北することを意味するからだ。

参考 : Joint Press Release on the 25th Round of Boundary Talks between Bhutan and China 他
文 / エックスレバン 校正 / 草の実堂編集部

  • Xをフォロー
好きなカテゴリーの記事の新着をメールでお届けします。下のボタンからフォローください。
アバター画像

エックスレバン

投稿者の記事一覧

国際社会の現在や歴史について研究し、現地に赴くなどして政治や経済、文化などを調査する。

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く
Audible で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 【ロシアを擁護するトランプ】中国は台湾に侵攻する意欲を増強させる…
  2. 『インド×パキスタン』の核危機がもたらす連鎖的恐怖 〜プーチンの…
  3. 「中国が再び牙をむく」レアアースで日本経済は止められるのか?
  4. 日本が核武装をするべきではない理由とは?「安全保障のジレンマ」か…
  5. 中国軍、「台湾上陸訓練」に民間船を利用か?商船を偽装した見えない…
  6. 「中国空母が太平洋で同時展開 」台湾有事を見据えた米軍牽制の戦略…
  7. アラビア半島のアルカイダ ナセルウハイシ 「アラビア半島のアルカイダ」とは何か 〜米本土を標的に起こしたテ…
  8. 【北朝鮮は招待、なぜ台湾は外された?】被爆80年目の長崎平和祈念…

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

世界の神話や伝承に登場する恐ろしい「カニのような怪物」4選

カニは、高級食材である。美味なカニを心ゆくまで味わうことは、庶民にとっても夢の一つで…

「結婚してたの!?」周囲から驚かれた文豪・中島敦の表と裏の顔

中島敦(なかじま あつし)といえば、「山月記」や「李陵」といった中国古典を題材にした作品が有名です。…

江戸の火消しはなぜモテた?「出初式」に受け継がれる命がけの職人魂

1月になると、日本各地の消防署で行われる『出初式(でぞめしき)』。はしごの上で披露される軽や…

『古代中国』妃や宮女たちが頼った、今では信じられない避妊法とは

「子をなすこと」は、人類の営みの中でも最も根源的な行為のひとつである。だがその一方で、「子を…

高杉晋作【奇兵隊を創設した風雲児】

奇兵隊と 高杉晋作高杉晋作(たかすぎしんさく)と言えば、幕末の長州にあって奇兵隊を創設し…

アーカイブ

人気記事(日間)

人気記事(月間)

人気記事(全期間)

PAGE TOP