思想、哲学、心理学

哲学者ハイデガーとアレント、50年にもわたる不倫の恋とは?

画像 : 1920年頃のハイデガー public domain

20世紀ドイツを代表する哲学者マルティン・ハイデガーと、政治思想家ハンナ・アレント

二人の師弟関係を超えた17歳差の恋は、不倫、ナチス協力、亡命という激動の時代背景を経て、半世紀にもわたり続きました。

今回の記事では、往復書簡と時代背景を手がかりに、恋愛と思想が絡み合う二人のドラマをたどります。

M・ハイデガー(1889–1976)

ドイツ南西部出身の哲学者。代表作『存在と時間』(1927)によって「人間の存在とは何か」という根本的な問いを投げかけ、現代思想に決定的な影響を与えた。妻エルフリーデとの間に2人の息子がいた。

H・アレント(1906–1975)

ユダヤ系ドイツ人の政治思想家。18歳でマールブルク大学に入学し、ハイデガーの講義に出会う。のちにナチスからの迫害を逃れて渡米し、『全体主義の起源』『エルサレムのアイヒマン』などを著して、20世紀を代表する知性と評価された。

教授と女子学生、運命の出会い

画像 : 18才頃のアーレント Portrait of Hannah Arendt in 1924

出会いと恋の始まり、そして別れ

1924年のマールブルク大学。18歳の新入生アレントは、35歳の助教授ハイデガーの講義に心を奪われます。

すでに妻エルフリーデとの間に二人の子どもがいたハイデガーですが、アレントの知性と美貌に惹かれ、密かに公園で会ったり、家族が留守の間に自宅へ招いたりしながら次第に関係を深めていきました。

「君がいなければ『存在と時間』は書けなかった」

そんな殺し文句を伝えるほどにハイデガーはアレントに傾倒します。
しかし、狭い町ゆえに噂が広まりはじめると、友人のカール・ヤスパースがいるハイデルベルク大学への転学をアレントに勧めたのです。

ハイデルベルクへ移った後も、二人は情熱的な手紙のやり取りを通じて交際を続けました。
ただし現存する手紙の大半はハイデガーが書いたものであり、アレントからの手紙はほとんどが廃棄されています。

しかし1929年、アレントはまるでハイデガーに反発するかのように別の男性と結婚。これを機に二人の関係は表面的には途絶えることになりました。

画像 : 1933年のアーレント public domain

1933年、ナチス政権の誕生によってユダヤ人のアレントはアメリカへ亡命。

その一方、ハイデガーはフライブルク大学の総長に就任し、ナチ党に入党。

「闘う総長」として積極的にナチスへ協力し、師匠であるユダヤ系哲学者のエトムント・フッサールをも見捨てたのです。

戦後の再会と「雪解け」(1950–1960年代)

画像:ナチスの選挙ポスター public domain

敗戦後、ナチスへの協力が問題視されたハイデガーは、フライブルク大学総長としての経歴が仇となり、公職から追放されてしまいます。そのため年金も支給されず、経済的にも深刻な状況に陥りました。

かつての友人や弟子に救済を求めるため、友人のヤスパースにも手紙を書き、公職追放の解除に奔走しましたが、すぐには改善しませんでした。

そんな状況の中で転機となったのが、1950年に実現したアレントとの再会でした。

アメリカ亡命後に政治哲学者として活躍し、すでに新進気鋭の学者として評価されていたアレントは、1950年2月、ナチス政権下で没収されたユダヤ人財産の調査を行うためドイツを訪れます。

このとき、十数年ぶりにハイデガーと再会したのです。

ハイデガーは再会にあたって、若い頃にアレントと恋愛(不倫)関係にあったことを、初めて妻エルフリーデに打ち明けました。
公職追放の解除をアレントに頼むには、過去を隠し通すことができなかったためです。
こうして二人の再会は、妻を交えた三人という、ある意味劇的な場面で実現することになりました。

そのあともアレントは訪独のたびにハイデガー夫妻と頻繁に会うようになりましたが、やがて二人だけの秘密の逢瀬が再開されました。
しかし妻にバレてしまい、二人きりで会うことは断念し、そのあとはあくまで家族ぐるみの交流に落ち着きました。

1951年、アレントは『全体主義の起源』を刊行。

ナチズムやスターリニズムといった全体主義の本質を鋭く分析し、世界的な名声を彼女にもたらします。

また、ハイデガーもアレントをはじめ友人・知人たちの援助や尽力もあり、次第に公職追放が解除され、講演活動や著作の出版によって哲学界に再び復帰し始めます。

アレントとの再会は哲学者としての社会的復帰を果たせた、重要なきっかけとなったのです。

「性格は悪いが、思想は巨人」ハイデガーの光と影

画像:1960年頃のハイデガー public domain

ハイデガーの思想は生涯を通じて大きく変化を遂げました。

若い頃は熱心なカトリック信者として神学を学びましたが、やがてプロテスタント神学や現象学の影響を受け、宗教的枠組みを超えた世俗的な哲学、特に形而上学や存在論へと関心を移していきます。

思想的な変節の背景には、自分が置かれた大学や環境に応じて、自らの立場を巧妙に操作しようとする意図がありました。その中でもフライブルク大学(カトリック)からマールブルク大学(プロテスタント)に移籍し、そのあと再びフライブルクに戻る過程では、自身の立場を「世界史的な必然」として正当化する老獪さも見せています。

先ほども少し触れましたが、ナチス政権の成立時にはフライブルク大学総長としてナチ党へ入党し、ナチスのイデオロギーを支持する講演を繰り返しました。

自分の師であるフッサールが迫害され、図書館の利用や大学教授としての地位を奪われようとしているときも、ハイデガーはあえて沈黙を保ちます。フッサールが亡くなった際には葬儀に参列すらしていません。

さらには身近な同僚や学生をナチスに密告したという記録も残っており、その人格面や倫理的な問題点については批判が多い人物です。

しかしそれにも関わらずハイデガーには、難解な哲学的テーマを分かりやすく伝える卓越した能力、そして圧倒的なカリスマ性を持つ講義を通して、人々を惹きつける特別な魅力がありました。

第一次世界大戦後の社会に漂う終末論的な空気や、人間の存在を問い直す実存哲学を踏まえた壮大な思想体系は、ヤスパース、カッシーラー、ルカーチといった、同時代の優れた哲学者たちを凌駕するほどだったと伝えられています。

アレントをはじめとする多くの知識人や学生たちは、ハイデガーの思想的な鋭敏さや講義の魅力に惹きつけられたのでしょう。

人格的な問題を認めつつも、彼の哲学が持つ圧倒的な力に引き込まれざるを得なかったのです。

戦後、ハイデガーに再開したアーレントは「あなたのような講義ができる方は、今も昔も誰一人いません」と語りかけたと言われています。

参考文献:木田元(2008)『哲学は人生の役に立つのか』PHP研究所
文 / 村上俊樹 校正 / 草の実堂編集部

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