思想、哲学、心理学

『ラミン・ヤマルの誕生日パーティーが物議』哲学で読み解く「正義」と「自由」

法改正直前のパーティー騒動が波紋を広げる

画像 : ラミン・ヤマル ©Ministry of the Presidency. Government of Spain

スペイン政府による障がい者権利法(障がい者を見せ物として扱う行為など)の罰則強化が目前に迫っていた2025年7月13日、FCバルセロナのスター選手ラミン・ヤマル(18)の誕生日パーティーが開催されました。

しかし、パーティーで披露された低身長症パフォーマーによるショーの映像がSNSで拡散すると、障がい者団体ADEEが「尊厳の侵害だ」と猛反発しました。

これに対し、出演していたパフォーマーの一人であるトニ・クレパス氏は「プロの仕事である」と強く反論し、スペイン社会を巻き込む大きな騒動へと発展している状況です。

法改正を目前に控える中で起きた今回の一件は、障がいを持つ人々のコミュニティ内に存在する深刻な意見の対立を、社会に広く知らしめる結果となっています。

対立の構図とは?保護と自己決定のジレンマ

今回の論争は、二つの異なる立場がぶつかり合うことで、複雑な様相を呈しています。

スペインの社会権利省はすぐに検察庁へ調査を要請するという迅速な対応を見せ、障がい者政策局長ヘスス・マルティン氏も「影響力ある人物の行為が若者に悪影響を与える」として深い懸念を表明しました。

またADEEも「歴史的な見せ物化の再生産だ」と厳しく批判しており、法的な措置も辞さない構えを見せています。

その背景にはヨーロッパに根深く残る「フリークショー(身体的な特徴や能力がめずらしい人々を見世物として見せる興行)」という負の歴史が存在するからです。

クレパス氏の反論とは?

その一方、当事者であるトニ・クレパス氏は、プロとしての誇りを込めて次のように反論しました。

・ショーは踊りや手品、接客で構成された「1時間半のプロの仕事」だった。
・観客からは敬意ある扱いを受け、終了後は参加者とも楽しく交流した。
・身体的条件で職業選択を制限されることこそ差別である。
・ADEEは仕事の機会を奪うだけで、代替案を示さない。

哲学的考察 ~正義と自由の視点から

画像:哲学者のジョン・ロールズ「無知のベール」という思考実験を提唱した public domain

この問題を哲学的に掘り下げていくと、重要な論点が浮かび上がってきます。

アメリカの哲学者・ジョン・ロールズは、1971年に発表した『正義論』において「無知のベール」という思考実験を提唱しました。

これは「人々が自身の社会的立場(金持ち、貧乏などの社会的ステータス)を知らない状況で社会を設計するなら、弱者を守る公平な分配を選ぶだろう」という考え方です。
なぜなら、いつ自分が事故や病気などで困難な立場に置かれるか分からないからです。

この視点に立てば、ADEEの主張は社会的な弱者を保護する「正義」に合致すると言えるでしょう。

カントの自律性の逆説

画像:ドイツの哲学者イマヌエル・カントは倫理(道徳)の重要性を何よりも強調した public domain

この問題を考えるうえで重要なのが、ドイツの哲学者イマヌエル・カントの倫理思想です。

カントは、「人間を決して単なる手段としてではなく、常に目的として扱え」と説きました。

つまり、他者を自分の楽しみや利益のために利用するのではなく、その人自身の尊厳を認め、尊重しなければならないという考え方です。

この観点からすれば、障がい者を娯楽のために登場させることは、彼らを「手段」として扱っているとして批判の対象になります。
政府による規制は、そうした行為を防ぎ、個人の尊厳を守ろうとする試みと見ることができます。

しかし一方で、その「保護」が行き過ぎれば、本人の意思や判断を無視し、自由な選択を奪ってしまう可能性もあります。
それはかえって、本人を自律した存在としてではなく、常に守られるべき対象、つまり「手段」として扱っていることになりかねません。

クレパス氏の反論は、こうした「守ること」と「尊重すること」の境界が問われている現実を浮かび上がらせているのです。

多様性社会が抱える根本的な問い

今回の論争は、「障がい者」という枠組みの中にも、異なる価値観や立場が共存している現実を浮かび上がらせました。

支援団体ADEEとパフォーマー側との対立は、単なる見解の違いではなく、「保護される存在」と「自らの選択で生きる個人」としての自己認識のあいだにある深い隔たりを示しています。

このような分断は、法や制度の整備だけでは解決できません。
法的規制が差別的構造を是正する力を持つ一方で、それが個人の自由や自律を奪うものになってはならないからです。
クレパス氏のように、自らの選択を尊重してほしいと願う声がある以上、制度のあり方もまた、一様ではありえません。

リベラルな社会が成熟するためには、こうした価値観の衝突を「善悪」の二元論で片付けるのではなく、当事者の声に耳を傾けながら、互いの立場をすり合わせていく不断の対話が欠かせません。

ロールズが晩年に論じたように、多様な信念を持つ人々が共に生きる社会に必要なのは、「正義」をめぐる固定的な合意ではなく、絶え間ない調整の意志なのです。

参考文献
ジョン・ロールズ(2020)『公正としての正義(再説)』(田中成明 ほか 訳)岩波書店
アマルティア・セン(2018)『不平等の再検討-潜在能力と自由』(池本幸生 ほか 訳)岩波書店
文 / 村上俊樹 校正 / 草の実堂編集部

村上俊樹

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“進撃”の元教員 大学院のときは、哲学を少し。その後、高校の社会科教員を10年ほど。生徒からのあだ名は“巨人”。身長が高いので。今はライターとして色々と。フリーランスでライターもしていますので、DMなどいただけると幸いです。
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