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『奈良の長谷寺』と『鎌倉の長谷寺』関係性はあるのか?両寺に伝わる観音伝説を検証

奈良と鎌倉、二つの地に「長谷寺」と呼ばれる寺院が存在し、どちらも十一面観音を本尊としています。

名前だけでなく、信仰の対象や格式まで共通するこの二つの寺院には、一体どのような関係があるのでしょうか。

ちなみに、鎌倉の長谷寺には「奈良の長谷寺から伝わる観音像を祀った」という伝承が残されていますが、その真偽は定かではありません。

そこで今回、筆者は実際に奈良県桜井市の長谷寺を訪れ、両寺の関係性を確かめることにしました。

まずは、両寺の歴史や縁起について詳しく見ていきます。

鎌倉の長谷寺

画像 : 長谷寺の山門 (鎌倉市) wiki © Junichi

関西在住の筆者は、鎌倉を旅したことはありますが、その際には残念ながら長谷寺には立ち寄りませんでした。

鎌倉の長谷寺の公式ホームページには、次のように記されています。

『往古より「長谷観音」の名で親しまれる当山は、正式には「海光山慈照院長谷寺」と号します。

開創は奈良時代の天平八年(736)と伝え、聖武天皇の治世下に勅願所と定められた鎌倉有数の古刹です。

本尊は十一面観世音菩薩像。木彫仏としては日本最大級(高さ9.18m)の尊像で、坂東三十三所観音霊場の第四番に数えられる当山は、東国を代表する観音霊場の象徴としてその法灯を今の世に伝えています。』

この説明から、鎌倉の長谷寺が奈良時代に創建された由緒ある寺院であることがわかります。

また、桜井市の長谷寺と同じくご本尊が大きな十一面観音像である点など、寺院の名前が同じだけでなく、桜井の長谷寺に多くの類似性があることがわかります。

鎌倉の長谷寺の十一面観音像に関する伝承

画像 : 木造十一面観音立像(本尊)wiki © Sailko

鎌倉の長谷寺には、本尊の十一面観音像にまつわる伝承が伝えられています。

これによると

「養老5年(721年)、桜井市の長谷寺の開祖である徳道上人の発願により、二人の仏師が一本の巨木から二体の十一面観音像を彫り上げた」

とされています。

そのうちの一体は、桜井市の長谷寺の本尊として祀られ、もう一体は衆生済度の誓願を込め、開眼供養を修した行基により海に投じられたそうです。そして海に投げられた観音像が、15年後、相模国の海の沖合に忽然と現れたといいます。

これを聞きつけた長谷寺の開基である藤原房前(ふじわらのふささき)が駆けつけ、この観音像を鎌倉へと遷座し、祀りました。
これが、鎌倉の長谷寺の開創の礎となったとされています。

この十一面観音像に纏わる伝承は、寺域内にも立て看板に記されているということです。

桜井市の長谷寺

画像 : 、奈良県桜井市の長谷寺外観 wiki © 663highland

しかし、前述した鎌倉の長谷寺に伝わる十一面観音像の伝承は、残念ながら桜井市の長谷寺では聞いたことはありません。

長谷寺のホームページには、次のように記されています。

『当山は山号を豊山(ぶさん)と称し、寺号を長谷寺と言い、正式には豊山神楽院長谷寺と申します。―中略―

朱鳥元年(六八六)道明上人は、天武天皇の銅板法華説相図(千仏多宝仏塔)を西の岡に安置、のち神亀四年(七二七)徳道上人は、聖武天皇の勅を奉じて、衆生のために東の岡に近江高島から流れ出でた霊木を使い、十一面観世音菩薩をお造りになられました。

徳道上人は観音信仰にあつく、西国三十三所観音霊場巡拝の開祖となられた大徳(だいとく)であり、それ故に当山は三十三所の根本霊場と呼ばれてきました。

現在の長谷寺は、真言宗豊山派の総本山として、 また西国三十三観音霊場第八番札所として、 全国に末寺三千余ヶ寺、 檀信徒はおよそ三百万人といわれ、 四季を通じ「花の御寺」として多くの人々の信仰をあつめています。』

また、本尊の十一面観音像に関する縁起については、次のような伝承が残されています。

『今は昔、諸国に大洪水があった時、近江国高島郡の岬に大木が漂着した。

村人の一人がその木の端を切り取ったところ、家が焼け、村人が多数流行病で死んだ。これは木の祟りだと言って誰も近寄らない。たまたま村に来た大和国葛木下郡の男がこれを聞き、この木を持ち帰り、十一面観音を作ろうと思ったが、木が大きくて家まで運べないので、そのままにして帰った。

その後、何人かを連れて行ったがそれでも運べなかったが、試しに縄をつけて曳いてみると軽々と曳けた。葛木下郡当麻(たいま)まで引いてきたが仏像を作るまでに至らず、男は死に、木はそのままで八十余年たった。

そのあと村に流行病が発生し、木のせいだとして、役人がかの男の子供にあたる宮丸に捨てさせた。宮丸は村人と共に敷上郡長谷川の岸に捨てた。二十年たち、この話を徳道という僧が聞き、自分が像を作ろうと今の長谷の地に曳いて行ったが、一人では作りかね、七、八年木に向かって祈祷した。

これが元正(げんしょう)天皇のお耳に入り、大臣藤原房前も聞いて、その協力のもとに神亀四年(七二七)、二丈六尺(約八・六メートル)の十一面観音像が完成した。
すると徳道の夢に神が現れ、北の山の下の大岩を掘り出したその上に像を安置せよという。
その後、観音の霊験はあらたかで、震旦(中国)までも利益を施した。今の長谷寺はこれである。』

この縁起は『今昔物語』にも記されており、奈良時代から平安時代にかけての伝承として知られています。

もし、鎌倉の長谷寺の伝承がこの時代から存在していたのであれば、『今昔物語』にも記載されているはずですが、そうした記録は見当たりません。

これらの事前調査を踏まえ、筆者は新緑の美しい季節に久しぶりに桜井市の長谷寺を訪れることにしました。

奈良の長谷寺は桜井市初瀬に位置し、近鉄大阪線長谷寺駅を下車、徒歩15分程の所にあります。
長谷寺は、春の桜、牡丹など四季の花々が美しい寺院として、また燃えるような紅葉の美しい寺院として有名です。
こうした季節には多くの観光客が訪れます。

しかし、牡丹の季節が終わり、観光客が落ち着いた頃の青もみじの時期もまた、清々しく美しい景観を楽しめるため、筆者にとってはおすすめの季節です。

本堂は小高い位置にあり、仁王門から登廊の階段を進むと、本堂に至ります。

画像:長谷寺の登廊 筆者撮影

この本堂の内陣に、金色に彩色された高さ10mの巨大な木製の「長谷寺式」と呼ばれる十一面観世音菩薩が安置されています。

画像:長谷寺の本堂 筆者撮影

お参りを済ませ、外陣から舞台に出ると、青モミジの中に鮮やかな朱色の五重塔が浮かぶ絶景に出会うことができます。

画像:長谷寺の青モミジと五重塔 筆者撮影

今回筆者は、何人かの僧侶や寺院関係者に、「鎌倉の長谷寺の十一面観音像に関する伝承」について尋ねてみました。

「奈良の長谷寺の観音像が海に流され、鎌倉にたどり着いたという話があるそうですが、当寺にもそのような伝承は残っているのでしょうか?」

こう尋ねると、いずれの方も「そのような伝承は当寺には存在しません」と明確に否定されました。

さらに、別の僧侶にも確認しましたが、「初めて聞きましたね。当山の縁起には、そうした話は一切出てきません」とのことでした。

長谷寺の公式縁起や、古くから伝わる記録の中にも、このような伝承を示すものは見当たりません。

鎌倉の長谷寺では、寺域内の看板にも記されるほど広く知られている話ですが、奈良の長谷寺ではまったく認識されていないのです。

鎌倉の長谷寺の十一面観音像に纏わる伝承の結論

以上のことから、鎌倉の長谷寺に伝わる十一面観音像の伝承は、桜井市の長谷寺には伝わっていないことが確認できました。

では、この伝承はどのようにして生まれたのでしょうか。

一つの可能性として、古くから信仰を集めていた桜井市の長谷寺の由緒にあやかり、後世になって創作されたという見方が考えられます。

また、桜井市の長谷寺の縁起にある「近江国高島郡の岬に漂着した霊木から十一面観音像が造られた」という伝承が、何らかの形で変化し、鎌倉の長谷寺の縁起に組み込まれた可能性も否定できません。

とはいえ、鎌倉の長谷寺も坂東三十三観音霊場の第四番札所として広く信仰を集め、桜井市の長谷寺と同様に、観音信仰の中心地の一つとなっていることは間違いありません。

西国と東国、それぞれの地域で信仰の拠点となった両寺は、共通する役割を果たしてきたといえるでしょう。

参考 : 『総本山長谷寺公式HP』『鎌倉 長谷寺HP』他
文 / 草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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