ドラマで描かれた衝撃の初夜シーン
中国の宮廷ドラマの金字塔となった『宮廷の諍い女』(原題『甄嬛伝』)には、視聴者の記憶に強烈な印象を残す場面がある。
皇帝との初夜を迎える側室が、衣を脱がされ全裸のまま布団にくるまれ、まるで「すまき」のように宦官たちの手で抱えられて、寝所に運ばれていくのである。

画像 : すまきのように布団でくるまれる妃 草の実堂作成(AI)
艶やかさや華やかさとは程遠く、どこか痛々しさすら漂うシーンである。
この映像は単なる演出なのか、それとも史実に基づくものなのか。後宮を舞台にしたフィクション作品は、往々にして史実と創作が巧みに織り交ぜられている。
清朝の後宮には確かに厳格な侍寝制度が存在したが、果たして本当に妃嬪たちは「すまき」のように運ばれていたのだろうか。
今回は、清朝で実際に行われていた制度や手続きをみていきたい。
清朝後宮の夜伽制度と実際の流れ
清朝の後宮では、皇帝と妃嬪の夜伽を管理するために、厳しい仕組みが整えられていた。
その中心となったのが「敬事房(けいじぼう)」と呼ばれる部署である。

画像 : 敬事房の宦官たち 草の実堂作成(AI)
ここでは皇帝がどの妃嬪を召したのか、いつ夜伽したのかをきちんと記録し、将来皇子が生まれた時に血統を証明する根拠とした。
つまり、後宮の営みは単なる私事ではなく、国家的に重要な出来事だったのである。
毎晩、皇帝が夕食を終えると、宦官が「膳牌」と呼ばれる緑色の木札を盆に載せて差し出した。
札には、その夜に呼び出せるすべての側室の名が記されており、皇帝は気に入った札を裏返して相手を決めた。
この仕組みは「翻牌子(ふぁんぱいず)」と呼ばれ、名前を選ばれた妃嬪にはすぐに知らせが届き、侍女の助けを借りて身支度を整えた。
これは、清朝が正式に編纂した行政法規集『欽定大清会典事例』の記録にも残っている。
凡選妃嬪侍寢、内務府預備緑頭牌、書名其上、呈遞御前。皇帝閲畢、留某牌、則太監持牌往告。其妃嬪即具裝候召。
意訳 :
妃嬪を選んで夜伽させる際には、内務府が緑頭牌を準備し、その上に名前を記して皇帝の前に提出する。皇帝が閲覧した後、ある牌を選ぶと、太監がその牌を持って選ばれた妃嬪に知らせに行く。妃嬪はすぐに身支度を整え、召しを待つ。『欽定大清会典事例』内務府・敬事房 より引用

画像 : 翻牌子 イメージ 草の実堂作成(AI)
召された妃嬪は、侍女の手を借りて身を清め、夜伽に備えたとされる。
興味深いのは、清朝では皇帝が自ら妃のもとに出向くのではなく、妃嬪の方が呼び出されて寝所に行くのが通例だったという点である。
ただし皇后だけは正妻として格別の扱いを受け、皇帝が自ら寝宮を訪れることもあったと伝えられている。
そして夜伽が終われば、妃嬪はそのまま泊まることを許されず、夜明け前に必ず自分の寝宮へ戻された。
これは皇帝が情に流されて生活を乱すのを防ぎ、政務に専念させるための制度だった。
実際に、清朝宮廷の公的記録集である『清宮档案』には「夜伽後は即刻退出」「留宿してはならない」といった記載が残されている。
このように、清朝の夜伽は「翻牌子」「敬事房の記録」「過夜の禁止」といった制度のもとに進められ、きわめて形式的で、統制の行き届いたものであった。
妃嬪たちにとっては愛情を深める時間というより、身分や将来を左右する「公務」に近い性格を帯びていたのである。
本当に「すまき」にされて運ばれていたのか

画像 : すまきにされる妃嬪 草の実堂作成(AI)
前述したように、中国宮廷ドラマを見たことのある方は「妃嬪が布団にくるまれ、宦官に抱えられて皇帝の寝所へ運ばれる」場面を思い浮かべるかもしれない。
ドラマや小説では頻繁に描かれ、いかにも現実にありそうな臨場感を漂わせている。
しかし実際には、清朝の制度を記した一次資料『大清会典』や『清宮档案』などには、このような具体的描写は見当たらない。
では、なぜこのようなイメージが広まったのだろうか。
ひとつの背景として挙げられるのが「皇帝の安全確保」である。
まず、清朝の制度を語るうえでしばしば引き合いに出される前例として、明代の第12代皇帝・嘉靖帝(かせいてい)の事件がある。

画像 : 嘉靖帝(かせいてい)は明の第12代皇帝。明世宗著龍袍像 public domain
1542年、嘉靖帝はなんと侍女たちに寝込みを襲われ、命を落としかけたのである。
この事件は「壬寅宮変(じんいんきゅうへん)」と呼ばれ、皇帝の寝所に女性を入れることが、時に危険であることを世に知らしめた。
以後、皇帝の身辺を守るための制度や警戒は、よりいっそう厳しくなっていった。
清代の第5代皇帝・雍正帝(ようせいてい)も、後宮の女性による暗殺未遂を常に警戒していたと伝えられる。
こうした歴史的背景が、「武器を隠せぬよう裸にさせる」「棉被で包んで運ぶ」といった説話を生みやすくしたのだろう。
さらに、清末から民国期にかけて刊行された通俗的な読み物、『後宮秘史』や『宮闈逸事』などが、この逸話を面白おかしく脚色したと考えられる。
特に清朝の権威が失われた時代には、皇帝と後宮の生活を滑稽に、あるいは怪奇的に描くことが大衆の好奇心を引きつけた。
その影響が近代以降の小説や映像作品に受け継がれ、現代のドラマにまで強いイメージとして定着したとみられる。
このように「すまきにされる夜伽」は、公式の制度としては確認できるものではない。
とはいえ、後宮という閉ざされた場の性質上、すべてが記録に残るわけではなく、伝承や逸話の中に現実を反映した部分が含まれていた可能性も否定はできないだろう。
後宮制度の実態

画像 : 清朝の後宮イメージ 草の実堂作成(AI)
清朝の後宮における夜伽の仕組みは、表向きには秩序と公正さを保つための制度であり、皇帝の精力を管理し、政務に支障をきたさないようにする狙いがあった。
しかし、その実態は女性たちの尊厳を大きく犠牲にするものだった。
妃嬪たちは自らの意思で皇帝のもとへ向かうのではなく、呼び出されるままに身を差し出さねばならなかった。
愛情や感情を交わす余地は乏しく、夜伽はほとんど「国家の公務」と化していたのである。
「すまきのように布団で包まれて運ばれる」という伝承は、史料的な裏付けはないにせよ、後宮の女性たちが置かれていた不自由さや悲哀を象徴しているといえるだろう。
結局のところ、清朝の夜伽制度は「皇帝の権力と安全」を守るために設計されており、女性はその犠牲となった。
後宮の華やかな表舞台の背後には、自由を奪われ、尊厳を抑え込まれた多くの妃嬪たちの姿があったのである。
参考 : 『欽定大清会典事例』『清宮档案』『後宮秘史』他
文 / 草の実堂編集部
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