始皇帝の死と「沙丘の変」
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画像 : 始皇帝 public domain
秦の始皇帝が崩御したのは紀元前210年、五度目の東巡の最中である。
この巡幸には、宦官の趙高(ちょうこう)、丞相の李斯(りし)、そして末子の胡亥(こがい)が随行していた。
行程の途中、始皇帝は突如として病に倒れ、沙丘(現在の河北省邢台市付近)で息を引き取った。
このとき、皇帝の死は公表されず、彼らだけがその事実を知る状態となった。
始皇帝の後継者として、最も有力視されていたのは長子・扶蘇(ふそ)である。
しかし始皇帝の死を受け、趙高は即座に李斯と胡亥を巻き込み、扶蘇の即位を阻止する計画を立てた。
李斯は当初、この策謀に消極的であったが、最終的には趙高の意見に同意し、胡亥を擁立することに賛成する。
彼らは始皇帝の死を隠蔽し、当時、北方で匈奴と対峙していた扶蘇と将軍・蒙恬に自決を命じる詔を作成し、密使を派遣した。
この決断が、秦帝国の運命を大きく狂わせることになる。
趙高の素顔
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画像 : 趙高(ちょうこう) イメージ 草の実堂作成
趙高は歴史上、奸臣の典型として語られる人物である。
「馬鹿」の由来の一説である「指鹿為馬(鹿を指して馬となす)」の故事に象徴されるように、彼は専横を極め、秦の滅亡を招いた張本人と見なされることが多いが、ここではあえて趙高側の視点から見てみたい。
趙高の出自については趙の遠縁の公族という説もあるが、詳細な記録がなく、『史記』でも明確な記述は見られない。
ただし、宦官として宮廷に仕え、刑法や行政の実務に精通していたことから、始皇帝の側近として重用されていたことは確かである。
特に、胡亥の教育係を務めたことは、後の権力掌握につながる重要なきっかけとなった。
前述したように始皇帝の死後、趙高は李斯を巻き込み、胡亥を擁立した。
この行動は、一般的には権力欲によるものとされるが、一方で自身の生存をかけた選択でもあったろう。
扶蘇が即位すれば、その側近である蒙恬や蒙毅が実権を握ることは確実であり、かつて趙高は蒙毅から罪を追及された経緯があった。そのため、新政権のもとで自身が生き延びることは困難だったと考えられる。さらに、扶蘇の治世では法家主導の統治が見直される可能性もあった。
つまり、趙高にとって胡亥の擁立は、単なる権力欲というより、自らの生存戦略であり、秦の支配体制を維持するためだったとも考えられる。
しかし、胡亥の即位後、趙高は急速に権力を掌握し、皇帝を補佐する立場から、やがて国政を独占するようになった。
当初は法家の原則に基づき国家統制を維持しようとした可能性もあるが、暴政へと転じてしまった。
各地で反乱が相次ぐなか、趙高はさらに強権的な手段をとり、結果として秦帝国の崩壊を加速させることとなる。
李斯と胡亥は、なぜ趙高に従ったのか?
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画像 : 李斯 イメージ 草の実堂作成
始皇帝の死後、李斯と胡亥はなぜ趙高に従ったのか。胡亥はまだしも、宰相の李斯は極めて聡明な人物だったはずである。
まず、李斯にとって最も重要だったのは、自らが築き上げた法家主導の統治を維持できるかどうかだった。
長子の扶蘇は、始皇帝の思想統制に反発した経緯があり、儒家にも理解を示していた。もし扶蘇が即位すれば、これまで推し進めてきた法家の統治体制が変質する懸念があった。
また、趙高は李斯に対し、「扶蘇が即位すれば、蒙恬を丞相とするに違いない」と説いた。
蒙恬は強大な軍事力を持ち、扶蘇からの信頼も厚かった。つまり、李斯にとっても生き残りの選択を迫られる形だったのだ。
一方、胡亥は軍事経験もなく、政治的な実績も皆無であったが、趙高が彼の教育係を務め、長年にわたる信頼関係があった。
そして趙高は胡亥に対し、「殿下こそが最も寵愛された御方であり、皇位を継がれるのは道理に適っています」と説いた。
また、皇位継承をめぐる歴史的な例を考えれば、胡亥も扶蘇の即位に対して不安を抱いただろう。
秦に限らず、王朝の継承において、皇位を争う異母兄弟が粛清される例は少なくなかったのだ。
始皇帝の遺志をめぐる謎
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画像 : 秦二世、胡亥。摄于曲江秦二世陵遗址博物馆。 public domain
前述したように、通説では、始皇帝は長子である扶蘇を後継者に指名していたが、趙高と李斯がその遺詔を隠蔽し、胡亥を擁立したとされる。
しかし、『史記』の「蒙恬列伝」には、蒙毅が処刑を前に「先主(始皇帝)は太子を定めるにあたり、長い年月をかけた」と述べた記述があり、始皇帝が後継者に関して長らく迷い続けていたことが窺える。
実際に、扶蘇は正式に立太子されておらず、始皇帝の怒りを買って北方に派遣されていた。一方で、胡亥は明らかに始皇帝から寵愛を受けていた。
この状況を考慮すると、始皇帝が内心では胡亥を後継者として考えていた可能性も否定できない。
そうなると、趙高らによる胡亥の擁立は、それほど不自然なことではなかったということになる。
さらに、扶蘇の反応も不可解である。
もし彼が後継者の最有力候補であり、周囲からも皇位継承が確実視されていたのであれば、蒙恬と共に兵を挙げるという選択肢も考えられたはずだ。しかし、彼は詔に疑問を抱くことなく、あまりにもあっさりと自害している。
これは、始皇帝に疎まれていると感じていたためか、あるいは自身が皇位を継ぐ可能性をそれほど強く意識していなかったとも考えられる。
結局のところ、始皇帝が本当に胡亥を後継者に望んでいたのか、それとも趙高と李斯が都合よく胡亥を擁立したのかについては、確定的な結論を出すことは難しい。
ただし、少なくとも趙高と李斯が扶蘇と蒙恬の排除を画策し、胡亥を擁立するための策謀を巡らせたことは間違いないだろう。
趙高が本当に秦を滅ぼしたのか?
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画像 : 陳勝・呉広の乱 ©大泽乡起义
趙高は歴史上、秦を滅ぼした元凶として悪名高い。しかし、本当に彼一人の専横が帝国の崩壊を招いたのだろうか。
胡亥を擁立した後、趙高は宮廷内で急速に権力を掌握し、李斯を排除して独裁体制を築いた。その結果、朝廷内では恐怖政治が広まり、皇帝に進言することすら許されない状況が生まれた。
しかし、秦の崩壊をすべて趙高の専横に帰するのは適切ではない。秦はそもそも、過度な中央集権と厳罰主義によって成り立っていた国家であり、始皇帝の死によってその脆さが露呈したのは必然ともいえる。
また、秦の滅亡は各地での反乱の勃発によるものであり、それは趙高の政策というより、秦の統治体制そのものがすでに限界を迎えていたことを示している。
例えば、陳勝・呉広の乱は胡亥即位の翌年にはすでに発生しており、これは始皇帝時代の過酷な政策に対する反発の表れであった。つまり、秦はすでに民衆の支持を失っており、二世の治世はその崩壊を早めたに過ぎないともいえる。
趙高の行動が秦の滅亡を加速させた要因だったことは確かだが、趙高は崩壊の過程で権力を握ったに過ぎず、秦の根本的な制度疲労が滅亡の主因だったといえるだろう。
参考 : 『史記』「秦始皇本紀」「蒙恬列伝」他
文 / 草の実堂編集部
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