古代中国の皇帝の埋葬方法
中国は悠久の歴史の中で、幾多の王朝が興亡を繰り返してきた。
各時代の皇帝たちは「天命」を受けて天下を治め、その死は国の命運に大きな影響を及ぼしてきた。
彼らの埋葬は単なる葬儀ではなく、政治的・宗教的・文化的儀礼の集大成であり、国家の威信をかけた一大事業であった。

画像 : 秦始皇帝陵 wiki c Bairuilong
秦の始皇帝陵に代表されるように、巨大な陵墓には地下宮殿や副葬品が備えられ、死後の世界でも皇帝としての地位を保てるよう設計されていた。
そうした壮麗な埋葬儀礼の根幹をなすのが「土葬」である。
中国の歴代皇帝の大多数は、土中に遺体を埋葬される伝統に従った。
これは単なる風習ではなく、古代中国に深く根ざした宗教的・倫理的観念によるもので極めて厳格に制度化されていた。
なぜ土葬だったのか
なぜ、これほどまでに土葬が重視されたのか。そこには、儒教が深く関わっている。

画像 : 孔子像(明代)public domain
儒家は、
身体髪膚、受之父母、不敢毀傷、孝之始也
意訳(身体は父母から授かったものであり、これを損なうことは孝に反する)
という理念を重視した。
つまり、火葬は肉体を焼き尽くす行為であり、それは先祖と身体への冒涜とされたのだ。
よって、土葬こそが「孝」の実践であり、道徳的に正しい死後のあり方だった。
また、中国古代では「死後の世界」こそが真の存在とされ、生前よりも重要視される傾向があった。
人間の寿命は短く儚いが、死後は「永遠」である。
だからこそ、生前の威光をそのまま死後にも維持できるよう、実体のある遺体を残すことが重んじられた。
土葬は、来世における存在を物質的に支える手段とされたのだ。
さらに、祖先崇拝の観念もこの文化を支えた。
肉体を損なわずに葬ることで、祖霊への礼を尽くし、子孫が定期的に祭祀を行い、供物を捧げる「祀り」の場を維持することができる。
この思想は民間にも浸透しており、「墳墓に魂が宿る」という信仰と結びついていった。
「火葬」された、ただ一人の皇帝
たが、例外的に「火葬」された皇帝がいる。
清の第3代皇帝・順治帝(じゅんちてい 在位1643〜1661)である。

画像 : 清の第3代皇帝 順治帝(じゅんちてい)北京故宮博物院蔵 public domain
順治帝は、中国の歴代皇帝たちの中で、正史において火葬されたと確認できる唯一の人物である。
清朝の皇帝として北京紫禁城で育った順治帝は、わずか6歳で即位し、8歳から親政を開始した。
その在位中、満漢融合政策の推進、反乱鎮圧、仏教振興など、多方面に渡る政策を打ち出したが、わずか24歳で天然痘により急逝してしまった。
順治帝は、次代の康熙帝・雍正帝・乾隆帝、いわゆる「康雍乾盛世」の黄金時代を導いた聡明な皇帝であったが、なぜ「火葬」されてしまったのだろうか。
まず、その大きな要因とされているのは、順治帝の仏教への傾倒である。
彼は特に禅宗に深く帰依し、僧侶を紫禁城内に招くなど、皇帝としては異例の行動を取っていた。
側近の宦官・呉良輔(ご りょうほ)を出家させたこともその一例であり、晩年には自らも出家を望んでいたとも伝えられている。
こうした仏教的信仰が、遺体の火葬という選択に直結した可能性は高い。

画像 : 天然痘ウイルス public domain
加えて、当時の北京では天然痘の流行が深刻であり、満族(女真族)にとっては免疫のない致命的な疫病だった。
順治帝の感染に際して、宮廷は感染拡大を防ぐため、衛生・封鎖措置として火葬を選択したとも考えられている。
実際、清初には痘瘡流行に備えて南苑に「避痘所」が設けられていたが、それでも皇帝を守ることはできなかった。
順治帝の遺体は紫禁城内で火葬された後、骨灰が清東陵の孝陵に埋葬されたとされている。
また、他にも火葬された可能性のある皇帝はわずかに存在する。
たとえば、遼の第2代皇帝・耶律堯骨(やりつ ぎょうこつ)には「塩漬けの後に焼いた」という逸話があり、モンゴル帝国のクビライらにも「秘葬」や「火葬」を示唆する記録がわずかに存在する。
だが、これらは伝聞や後代の解釈に過ぎず、順治帝のように正史や複数史料で確認できる明確な火葬記録は現存していない。
また、ラストエンペラーとして知られる清朝最後の皇帝・溥儀も火葬されているが、死去当時はすでに平民の身分であったため、本稿では皇帝としての火葬例には含めていない。
異例尽くしの死の「準備」
順治帝は、自身の遺体が火葬されるよう手配していたと伝えられる。
当時の記録によれば、火葬を実行するための「火化師」が手配されており、最愛の妃である董鄂(ドンゴ)氏の火葬も、同一人物の手によって行われたとされている。

画像 : 順治帝の寵妃・董鄂氏(ドンゴ氏)孝献端敬皇后 public domain
その遺詔もまた異例であった。
病床の順治帝は、自身の側近であった文官・王熙(おうき)と麻勒吉(マラジ)を呼び、遺言を口述させたが、その内容はまるで懺悔録のようであり、自らの政治的失敗を細かく述べている。
太祖・太宗の遺志を十分に継げなかったこと、漢人官僚を過度に重用したこと、宦官を使いすぎたこと、そして満洲の貴族層と距離を置いたことなど、多くの「失策」を自らの言葉で告白しているのだ。
この遺詔は後に改ざんされた可能性も指摘されているが、原本とされる写本の記述には、皇帝の苦悩と自己省察が色濃くにじんでいる。

画像 : 世祖章皇帝(順治帝)の墓碑。漢文、満洲語、モンゴル語で書かれている。wiki c Siyuwj
順治帝の死は、遺詔を出したその年の正月初七(1661年2月5日)に訪れた。
遺体は火葬され、その骨灰は北京郊外の清東陵・孝陵に納められた。
葬儀では数名の側近が殉死し、数百点に及ぶ副葬品が焼かれたという。
宮廷は当初、火葬の事実を詳細には公表しなかったため、後年には「順治帝は死なずに出家して姿を消した」という逸話も生まれた。
だが複数の記録と実際の葬送の痕跡を重ねるかぎり、順治帝の火葬は事実と見なされている。
順治帝の死は、ただの早世ではない。
伝統的な皇帝像を超えて、宗教的信仰に殉じ、また感染症の拡大という現実に向き合った結果としての火葬は、中国皇帝史上きわめて異例であり、今も特異な輝きを放っている。
参考 : 『清史稿』卷五、卷二百十四『清實錄‧清世祖章皇帝實錄』他
文 / 草の実堂編集部
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