中国史

『古代中国』なぜ妃たちの多くは子を産めなかったのか?あまりにも厳しい現実とは

華やかな後宮の裏側 ― 妃たちの実態とは

画像 : 宮殿イメージ 草の実堂作成(AI)

絢爛たる宮殿、絹に包まれた美しい衣装、音楽や詩が絶えない庭園――そんな後宮のイメージとは裏腹に、そこは「選ばれた女たち」が身動きもできず閉じ込められた空間でもあった。

古代中国の皇帝の后妃たちは、華やかな称号の裏で、厳格なヒエラルキーの中に組み込まれていた。
その仕組みや呼び名は、時代や王朝によって大きく異なる。

たとえば、漢代では「昭儀」「婕妤(しょうよ)」「美人」など二十種類以上もの称号が存在していた。

晋代では三夫人・九嬪・美人・才人などの位号が設けられ、唐代になると「貴妃」「昭容」「才人」「宝林」などが細分化されたうえ、女官職にも「尚宮」「尚儀」などの名称が与えられた。

宋・明・清の各王朝では、これらの序列がさらに細分化され、たとえば清代には皇貴妃・貴妃・妃・嬪などに定員が設けられるなど、制度としての厳密性が一段と高まっていった。

しかし、どの時代においても共通していたのは、後宮に入った妃たちの運命が「選ばれた日」から大きく変わるということである。

また、表向きには「帝の寵愛を受け、やがて皇子を産む」という希望が語られたが、実際にはその道をたどれる者はごくわずかだった。

後宮の実態は、華麗な後宮という幻想からは程遠く、むしろ長い幽閉生活の始まりだったのだ。

なぜ「選ばれても」子を産めなかったのか

画像 : 后妃イメージ 草の実堂作成(AI)

前述したように、後宮には子を授からないまま生涯を終える妃たちが、数多く存在した。

その大きな要因を4つ紹介しよう。

1. 人数が多すぎる

最大の要因は、圧倒的な「機会の不平等」である。

皇帝がたった一人であるのに対し、後宮には数百、時には千人以上の妃嬪がいた。どれほど容姿が優れていたとしても機会を得られなければ、妊娠という結果には結びつかない。

後宮に入っても、皇帝と一度も顔を合わせることなく老いてしまう例も珍しくなかったという。

唐代の杜牧の詩「少年入内教歌舞,不識君王到老時(若き日に舞を習って入宮し、老いてもなお君王を知らず)」は、そうした現実を象徴していると言えるだろう。

2. 過酷な競争と陰謀

また、わずかに寵愛を得た妃でも、その後の競争は熾烈を極めた。

皇帝の関心は移ろいやすく、新たな美人が後宮に加われば、昨日までの寵妃が一夜にして忘れられることもあった。
子を産むには、皇帝と継続的に関係を持つ必要があるが、そのような関係を築けるのは、ほんの一握りの妃に限られていた。

さらに、妊娠したとしても子を無事に出産し、育て上げられるとは限らない。

妊娠した妃は、宮廷内での権力闘争に巻き込まれることも多く、毒殺や堕胎、あるいは出産直後の事故死などが密かに起きていた。

とくに、皇后や実権を握る一族にとっては、自分の権威を脅かす可能性のある妃やその子を排除することが、現実的な手段として黙認されていた。

前漢の呂后は、劉邦の寵妃だった戚夫人を残虐な方法で処刑し、その子である劉如意を毒殺したとされている。

また唐の武則天も、皇后の王氏や側室の蕭淑妃を失脚させ、尼に落としたうえで最終的には殺害に至ったとされる。

政敵を排除する過程で、後宮内の女性たちを政治的に“処理”することは、もはや日常の一部と化していたのである。

 3. 名門出身が優遇された

画像 : 寵妃イメージ 草の実堂作成(AI)

後宮では、何よりもまず皇帝の寵愛を受けることが重要だった。

しかし現実には、出自や背後の勢力が大きく影響し、とくに名門出身の妃や、皇后・太后といった既存の権力とつながる女性たちが優先される傾向にあった。

また、接触そのものも厳しく管理されていた。

どの妃がいつ皇帝のもとに召されたかは、宦官によって日々帳簿に記録されており、これは漢代から清代に至るまで制度化されていた。

妊娠が判明すれば、その記録と照合されるため、出産はもはや私的な出来事ではなく、国家の意向に沿って管理される「政治的な出来事」として扱われていた。

つまり、「誰が産むべきか、誰が産んではならないか」といった選別も、宮廷の意志が大きく働いていたのである。

4. 医療水準の低さ

当時の医療水準の問題も大きい。

後宮にも医師はいたが、出産に関する知識はまだ乏しく、妊娠中の感染症や栄養不足が命取りになることも珍しくなかった。

健康状態が良くないまま孤立した生活を強いられ、心身のバランスを崩す妃たちにとって、無事な出産はきわめて困難な挑戦であったのである。

こうして見ると、後宮における「子を産めない」という状況は、個人の問題というより、構造的な宿命だったと言うほかない。

妃たちの沈黙と、史書が語る哀しき結末

古代の史書は、勝者の記録であると同時に、声を奪われた者たちの墓標でもある。

後宮に生きた女性たち、とりわけ名もなき妃たちの人生は、そのほとんどが記録にも残らず、静かに歴史の闇へと消えていった。

たとえば唐代の皇帝たちの治世には、数百人にのぼる妃が存在したとされるが、そのうち名前と事績が残された者はごくわずかにすぎない。

ほとんどの妃は、子を産む機会すら与えられぬまま、後宮の片隅で老い、役目を終えた。

なかには、妊娠できなかったことが「不備」と見なされ、冷遇されたり、地位を追われたりする例もあった。

画像 : 玄宗皇帝と楊貴妃 public domain

たとえば、唐の玄宗が深く寵愛した楊貴妃も、実子を残すことができなかった。

彼女の美貌と芸術的才能は広く称えられたが、後継者を産めないことは、後宮という制度のなかでは致命的な弱点でもあった。
どれほど皇帝に愛されたとしても、「血」を残せない妃は、政治的には空虚な存在と見なされてしまうのである。

こうした制度のもとで、妃たちは生きていた。
形式上は「皇帝の女性」であっても、実態は「ただの存在」にすぎなかった者が大半であった。
接触の機会すら与えられず、静かにその命を終えていく‥‥その姿は、現代の視点から見れば、制度的な強制不妊にも等しいと言えるだろう。

彼女たちは声を上げることも叶わず、痛みや孤独を訴える術もなかった。
いや、もしかすると訴えていたのかもしれない。だが、その声が記録されることはなかった。

声を上げることもできず、ただ沈黙の中で役割を終えた彼女たち。その存在が確かにあったことを伝えてくれるのは、わずかな記録と、私たちの想像力だけである。

参考 : 『史記・外戚世家』『旧唐書・食貨志』他
文 / 草の実堂編集部

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