日本史

京都の「裏」を探索! 〜西陣に残る不思議な伝承と庶民信仰の寺社たち

コロナがひと段落したなんて言われる昨今、ワールドワイドな観光地として、世界中から尋常ならざる数の人々が訪れる京都。

観光名所のみならず、街中にまで人があふれかえり、もはや京都フリークでさえ安住の場を見つけられないような現状に苛まれている。

それでも、京都に行きたい。そんな人におススメなのが「」の京都だ。
「裏」と言っても、別に怪しいモノではないのでご安心を。

例えば、京都の「表」。これを清水寺、銀閣寺、平安神宮、東寺、金閣寺、天龍寺、鞍馬寺、貴船神社などの超有名社寺とするなら、「裏」はそこから外れたモノだ。
そのモノとは、神社仏閣であったり、街であったり、かたちはさまざまである。

そして、京都は「裏」こそ面白い。
そこには、千年もの間、日本の都だった京都ならではの奥深いものがたくさん詰まっているからだ。

今回は前回に引き続き、京都の「裏」の中から、高級織物・西陣織で有名な「西陣」の庶民信仰の寺社と旧跡を紹介したい。

西陣はかつて「葬送地」だった

まずは、今回取り上げる「西陣」について、その地理的条件を簡単に説明しよう。

実は「西陣」という行政区分は存在せず、京都市上京区の西北部、堀川通より西、一条通より北のエリアを指す。

この一帯が「西陣」と呼ばれるようになったのは、応仁の乱の際に西軍の総大将・山名宗全が、この地に陣を構えたという説が一般的である。

西陣の北端ともいえる船岡山から今出川通に至る地域は「蓮台野(れんだいの)」と呼ばれ、古くから都に住まう人々の墓所であった。

この地は当初、庶民の風葬地であったが、平安中期以降には皇族の火葬にも用いられるようになった。

画像:餓鬼草紙 public domain

ちなみに風葬とは、亡くなった人を自然の中に安置して消滅させる葬送の方法である。

つまり、遺体を雨風に晒すことで、自然に還すのだ。

平安時代の蓮台野は、横たわる遺体と鼻をつく死臭、それをついばむ鳥や獣が横行する荒涼とした場所であった。

西陣を南北に縦断する千本通は、かつて平安京のメインストリートであった朱雀大路にあたる。

後に“千本”と称されるようになったのは、死者を弔うために縁者たちが立てた無数の卒塔婆が乱立していたことに由来するという。

画像:卒塔婆イメージ

こうした時代背景をもつ西陣は、いわば“生と死の境目”ともいえる場所であった。

だからこそこの地には、死への畏れや生への希望といった、人々の切実な祈りが込められた寺院が存在するのである。

蓮台野の回向寺院「上品蓮台寺」

画像:上品蓮台寺本堂 public domain

飛鳥時代の7世紀前半ごろ、聖徳太子が母の菩提寺として創建し、平安初期に宇多法皇が再興したと伝わる寺が「上品蓮台寺(じょうぼんれんだいじ)」だ。

しかし、『蓮台寺供養願文』によると、960年に宇多法皇の弟子・東寺長者寛空が北山に一堂を建立し、亡き父母の供養をしたとあることから、これが同寺の実質的な創建ともいわれる。

また、987年に嵯峨清凉寺の本尊・釈迦如来像が宋から請来した際、一時的に同寺に安置され、その後、清凉寺に移されたという。

だとすると、蓮台寺は後述する石像寺とともに、京都でも最古級の寺院の一つと考えられる。

ともあれ創建から時代が降ると、同寺の周辺は皇室の火葬墓や庶民の葬送地となった。

蓮台寺はそれに従って、その墓守寺としての性格を持つようになっていったのではないだろうか。

画像:上品蓮台寺の頼光塚 public domain

そのような歴史の他にも、同寺には興味深いものがある。

それが、塔頭寺院の真言院にある「源頼光塚」だ。

「蜘蛛塚」とも呼ばれるこの塚は、謡曲『土蜘蛛』で、病床の源頼光に千筋の糸を放って襲いかかった土蜘蛛ノ精が、名刀・膝丸で斬りつけられた後、逃げ込んだとされる穴があった場所だという。

蓮台寺を訪れるのであれば、3月下旬から4月中旬はおすすめしたい。

この季節、枝垂桜や紅白の桜の花が、寺の境内を美しく飾る様子は、蓮台野の回向の寺院にふさわしい風景といえる。

閻魔法王を祀る「千本ゑんま堂・引接寺」

画像:千本ゑんま堂(撮影:高野晃彰)

正式名は「引接寺(いんじょうじ)」だが、本尊に高さ2.4mの閻魔法王を祀るため、京都人には「千本ゑんま堂」の方が馴染み深い。

ちなみに、“引接(いんじょう)”とは、仏が衆生を浄土に往生させることである。
同寺が蓮台野の入口にあるのは、その役目を担っているからだという。

そして、「千本ゑんま堂」の開基は、現世と冥界を行ったり来たりして、あの世で閻魔法王に仕えていたという平安前期の公卿・小野篁(おののたかむら)だ。

不正に対する反骨精神にあふれ、時に権力者の藤原氏一門にも牙をむき「野狂」とも称された篁は、閻魔法王の右腕として最適であったろう。

画像:千本ゑんま堂の無縁仏(撮影:高野晃彰)

「千本ゑんま堂」を詣でると、本尊・閻魔法王も迫力満点だが、多くの無縁仏にも目を引かれる。

これも、同寺が蓮台野の精霊迎えの根本霊場であることを物語っているようだ。

また、境内奥には、地獄に落ちたとされた紫式部の供養塔が建っている。

その横には、遅咲きの八重桜で、散るときに花冠ごと落ちるという、不思議な普賢象桜がある。

人々を苦しみから救う「釘抜地蔵・石像寺」

画像:石像寺の釘抜きのモニュメント(撮影:高野晃彰)

石像寺(しゃくぞうじ)」は、弘法大師・空海が、唐から持ち帰ったという石に、自ら刻んだとする地蔵菩薩を本尊として、819年に創建したとされる。

この地蔵尊は、苦しみを抜き取るとご利益があることから、“苦抜(くぬき)”地蔵と呼ばれていたが、それが転じて、室町時代には「釘抜地蔵」と呼ばれるようになったという。

「釘抜地蔵」の名の由来については、次のような伝説もある。

それによると、1556年頃、両手の激しい痛みで苦しんでいた商人が、その痛みから逃れたい一心で、石像寺の地蔵菩薩に7日間の願かけをした。

すると満願の日の夢に地蔵菩薩が現れ、「お前の苦しみは、前世において人を恨み、呪いの人形を作り、その手に八寸釘を打ち込んだことにある」と告げ、呪いの人形から抜き取った八寸釘を商人に見せたという。

商人が夢から覚めると、両手の痛みがすっかり消えていた。
不思議に思いつつ、石像寺に参詣すると、地蔵菩薩の前には血に染まった2本の八寸釘が置かれていたという。

こうして、石像寺は苦しみや痛みに悩む人々を解放してくれる地蔵の寺として「釘抜地蔵」と呼ばれることになった。

画像:釘抜き地蔵でお百度を踏む人々(撮影:高野晃彰)

同寺でひと際目を引くのは、本堂の壁を取り囲むようにびっしりと貼られた、2本の五寸釘と釘抜を括りつけた独特の絵馬だ。

こうした絵馬は、釘抜地蔵のご利益にすがり、痛みが癒えた人々が奉納したものである。

その周りを、お百度参りの参詣者が願掛けのために足早に回る光景を目にすると、石像寺がいかに庶民たちの信仰を集めているかが実感できる。

授乳祈願に霊験あらたかな「岩神祠」

画像:岩神祠(撮影:高野晃彰)

西陣の織屋街の奥に、ひっそりと佇む小さな祠がある。

そこに祀られているのは、高さ約1.7メートル、幅約1.5メートルの、赤みを帯びた大きな石だ。

岩神祠(いわがみのほこら)」と呼ばれるこの石には、さまざまな伝説や奇談が秘められている。

もともとこの巨岩は、二条堀川近くにあったという。
江戸時代前期、その形を気に入った後水尾天皇が、御所の庭に移したところ、石が吠えたり、小僧に化けるといった怪異がたびたび起きた。

そこで、真言宗の僧がこの石を譲り受け、現在の地に安置し「有乳山岩神寺(うにゅうざんがんじんじ)」として祀ったところ、怪異はぴたりと止んだ。

以後、この石は授乳祈願に霊験あらたかなものとして、妊婦たちの篤い信仰を集めたが、時の流れとともに寺は荒廃し、現在は石だけが小さな祠に祀られている。

幽霊にまつわる伝説がある「立本寺」

画像:立本寺祖師堂 public domain

1321年の創建と伝わり、具足山と称する日蓮宗の本山が「立本寺(りゅうほんじ)」である。

西陣の街中にありながら広大な境内を有し、京都市指定有形文化財に指定されている本堂、鬼子母神堂(刹堂)、客殿、鐘楼、表門などの建物が立ち並ぶ。

画像:幽霊子育飴 public domain

この寺院もまた数々の伝説に彩られている。

その一つが、「幽霊子育飴(ゆうれいこそだてあめ)」の伝説である。

ある女性が、毎夜1文銭を持って飴屋「みなとや」に飴を買いに来た。
しかし、7夜目の1文銭がシキミの葉だったため、不審に思った飴屋の主人がその後を追った。すると女性は立本寺の墓地で姿を消し、そこから赤ん坊の泣き声が聞こえてきたという。

墓穴から助け出された赤ん坊は、後に出家し、立本寺第二十世・日審上人となったと伝えられている。

つまり、立本寺の墓に納められた壺の中で生まれた日審上人は、母の幽霊が与えた飴によって育てられたということになる。

この飴は現在も同寺で販売されており、ぜひ一度賞味してみてはいかがだろう。

画像:立本寺の鬼子母神堂(撮影:高野晃彰)

立本寺と幽霊といえば、2020年にKBS京都で放送された番組『あんぎゃでござる!!』では、同寺の塔頭で育った三木住職が案内役として登場している。

番組では、立本寺にまつわる数々の逸話や不思議な現象が、ユーモアを交えて紹介されている。YouTubeなどで一度ご覧になってみるのもよいだろう。

また、立本寺は法華宗の寺院だけに、祖師堂には日蓮上人の像が安置されている。

この像は「冑の御影(かぶとのみえい)」とも呼ばれている。

その由来は、松永久秀の家臣が出陣にあたり、「無事に帰還できれば一寺を建立する」と祈願し、日蓮像を兜で覆って地中に埋めたことによる。

後に賊が侵入し、この像を掘り出して持ち去ろうとしたが、像は岩のように動かず、その場にとどまったという。

画像:立本寺墓地の島左近墓(撮影:高野晃彰)

さらに、立本寺の境外墓地も興味深い。

ここには、名妓・吉野太夫を身請けした豪商・灰屋紹益、そして石田三成の重臣・島左近の墓がある。
同寺の伝承によれば、島左近は関ケ原の戦いを生き延び、京都で余生を送り、死後この地に葬られたという。

以上、西陣に点在する庶民信仰の寺社をめぐってみたが、いかがだっただろうか。
観光客で賑わう京都の中心部とは異なり、「裏」京都では、落ち着いた空気のなかで歴史散策を楽しむことができる。

機会があれば、ぜひ一度訪れてみてほしい。

※参考文献
京都歴史文化研究会著 『京都ぶらり歴史探訪ガイド』メイツユニバーサルコンテンツ刊
文 : 写真 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

高野晃彰

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編集プロダクション「ベストフィールズ」とデザインワークス「デザインスタジオタカノ」の代表。歴史・文化・旅行・鉄道・グルメ・ペットからスポーツ・ファッション・経済まで幅広い分野での執筆・撮影などを行う。また関西の歴史を深堀する「京都歴史文化研究会」「大阪歴史文化研究会」を主宰する。

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