今から遡ること約100年前の1931年、日本美術界に突如として現れ、彗星のごとく鮮烈な輝きを放った若き版画家がいた。
幻の天才版画家とも呼ばれる彼の名は「藤牧義夫(ふじまき よしお)」という。

画像:藤牧義夫 (1911-1935) wiki cc
1931年といえば、世界中が大恐慌の影響を受けて不況と混乱に陥り、中国では「満州事変」が起きて、日本の軍国主義が強化され始めた時期だ。
そんな混沌とした時代に版画家として活動し始めた義夫は、それからわずか4年後に謎の失踪を遂げた。
以後その姿が見つかることはなく「隅田川に身を投げた」という説だけを残して、詳細不明のまま死亡扱いとなった。
失踪時、まだ24歳だった彼はどんな理由で、どこに消えてしまったのだろうか。
今回は、版画家・藤牧義夫の生涯と、突然の失踪の謎に迫っていきたい。
藤牧義夫の生い立ち

画像:館林市の田山花袋旧居。 wiki cc 藤牧の実家の裏手に田山花袋の生家があった。
藤牧義夫は1911年1月19日に、群馬県邑楽郡館林町(現・群馬県館林市)で生まれた。
藤牧家は代々館林藩に仕えた士族の家系だったが、義夫の父・巳之七(みのしち)は明治維新後に教職に就き、その後、定年後まで小学校校長を歴任した人物だった。
義夫は父が54歳になる年に、四男として生まれた10人兄弟の末子だが、兄たちは次男の秀次を除いて早世していた。
義夫が2歳の時には実母のたかも亡くなり、8歳の時に父はたかの実の妹と再婚した。
尋常高等小学校の校長職を定年まで勤め上げ、定年後も地元の名士として讃えられた父のことを、義夫は心から尊敬していた。15歳の時には父の伝記「三岳全集第1巻」を自らの手で完成させている。
教職の傍らで「三岳」と号して絵画や書道をたしなんだ父の遺伝か影響か、義夫も小学生の頃から周囲の大人や同級生が驚くほどの、非凡なる美術の才能を発揮していた。
しかし、その尊敬する父も義夫が13歳の時に病没してしまい、その約2年後には兄・秀次も結核により亡くなっている。
16歳になると義夫は上京し、絵の才能を活かして銀座の植松図案工房に入った。
そこで義夫は、当時日本橋で活躍していた染織図案家・佐々木倉太に師事して、約3年をかけて商業図案を学びながら、当時流行していた独自の様式による創作版画を制作し始めたのだ。
就職し版画家としても活動開始

画像:『朝』1932年 public domain
義夫は佐々木の下で図案を学んだ後、デザイン会社に就職を果たした。
日々仕事に励みながらも版画製作は続けており、20歳になった1931年には『ガード下のスパーク』、『夜景』、『請地の夜』を展覧会に出品している。
その翌年の1932年に義夫は、後に版画家界の重鎮となり紫綬褒章を受章する小野忠重らとともに、「新版画集団」を創立した。
新版画集団とは、明治以降に日本で興った新たな芸術ジャンル「創作版画」を推進し、日本中に創作版画を広めるという「版画の大衆化」を目的として創立されたアマチュア芸術家集団だ。
明治末期まで日本の版画といえば、いわゆる浮世絵が主流だった。浮世絵に版画という手法が用いられたのは、商品化のための大量印刷を目的としていたからだ。
そのため日本の版画はその芸術性よりも、工業作品としての価値や複製方法ばかりがクローズアップされていた。
義夫ら新進気鋭の版画家たちは、版画のそうした商業性ではなく、版画という手法ならではの芸術的表現に注目し、版画作品の美術性や非実用性を前面に押し出して、創作版画が世間一般に広く受け入れられることを目指した。
新版画集団メンバーの作風は、それぞれの個性が際立っていた。
その中でも義夫は非凡なる才能を発揮して、関東大震災の被害から復興して近代化していく東京の街並みなどを、力強く生命力あふれるタッチで精力的に表現していった。
版画家として活動を始めた1931年から失踪する1935年までのわずか4年間に、デザインの仕事をこなしながら、数十点におよぶ版画や絵画を精力的に制作している。
特に1934年頃に完成させた『隅田川絵巻』全4巻は、主観で見た隅田川周辺の一連の景色を、全長60mに渡って描き上げた画期的な大作だった。
さらにその後も創作意欲は途切れることなく、エッセイの執筆や版画作品の製作、初の個人展覧会を開催するなど、新進気鋭の芸術家として精力的に活動していた。
しかし、充実した日々を過ごしていたはずの1935年9月のとある雨の日、義夫は、墨田区向島にあった「新版画集団」のリーダー・小野忠重の居宅を訪ねた後に、忽然と姿を消してしまったのである。
以後、消息はつかめないまま、生死不明の行方不明者となった。
最後に義夫に会った小野は後年に「藤牧は隅田川に沈んでいると、友人間では信じられている」と発言している。
失踪当日の藤牧義夫の足取り

画像:隅田川に架かる言問橋(1928年竣工当時の写真) public domain 1935年当時小野の居宅は言問橋の近くにあった。
それは、初秋の雨が降りしきる1935年9月2日のことである。
義夫は8月に館林の実家に帰省しており、東京に戻ってきたばかりだったという。
その日、浅草区神吉町(現・東上野)の下宿を徒歩で出発した義夫は、結婚して向島区吾嬬町西(現・墨田区東部)に住んでいた姉・みさをの自宅を訪ねた。
その際、義夫は、これからもう1人の姉・ていの家を訪ねるつもりであることを、みさをに伝えていた。
この時の義夫は特に大きな荷物を持っていたわけではなかったが、みさをは彼に「雨だから明日にすれば」と声をかけたという。
しかし義夫はみさをの家には留まらず、その日の夜にみさを宅を発った。
それがみさをが見た、弟の最後の姿だった。
一方で、義夫に最後に会った人物とされる小野も、失踪当日の彼の様子について幾度か語っている。
小野が1978年に開催された「藤牧義夫遺作版画展」のパンフレットに寄せた文章によれば、その日、下宿を引き払ってきたことを小野に告げた義夫は、2つの大きな風呂敷包みを預けたい、と頼んできたという。
その中には義夫の作品とともに、表現派やダダの書籍などの彼の愛読書がいくつか詰め込まれていた。
小野いわく、貧困に苦しみ飲まず食わずで追い詰められていた義夫は、瘦せこけた頬に涙を垂らしながら「新版画集団」の仲間たちへの謝罪と感謝の言葉を繰り返し、それから去っていったという。
しばらくして、義夫の姉から「まだ来ない」と連絡があり、小野は最悪の可能性を考えた。
その後、親族が捜索願を出したが義夫の姿が見つかることはなく、その日以来行方不明になってしまったのだという。
失踪にまつわる矛盾点

画像:『赤陽』1934年 public domain 本来の藤牧の版画作品ではなく偽作という説がある
失踪当日の義夫に会った人物2人、つまり姉・みさをの証言と、小野の証言には実は食い違う点がある。
また、当時の義夫が置かれていた状況と、小野の証言にも矛盾する点がある。
まず、みさをの証言によれば、9月2日にみさをの家を訪ねてきた義夫は、大きな荷物は持っていなかったという。
加えてその日はもともと豪雨の予報が出ていたため、版画家である義夫が雨の日に傘も持てない状態で、湿気に弱い版画作品を風呂敷包みで持ち運ぶ可能性も考えにくい。
そして小野が義夫から預かったという表現派やダダの本は、思想としては左派に分類される書籍だが、義夫はもともと父の影響を受けて右派宗教団体「国柱会」に所属しており、1934年には国柱会の精華会メンバーにもなっている。
保守思想の宗教に敬愛する父親の代から入信していた義夫が、改革派の本を愛読することなど果たしてあったのだろうか。
さらにこの頃の義夫は仕事も順調であり、貧困に苦しんでなどいなかったという。
そして小野は「藤牧義夫遺作版画展」が開催される以前に自著にて「義夫はそれまでの作品を全部ひとの手に渡して、隅田川絵巻の製作に集中した」と書いている。
小野はなぜ、当初は「ひとに渡した」と語っていた義夫の作品を、後年に「自分が義夫から預かった」作品としたのだろうか。
さらには義夫の作品とされた版画の多くに、他人が手を加えて摺りを行った偽作の疑いも浮上した。
しかし、当時の関係者のほとんどが鬼籍に入ってしまった現在、事故か事件かも不明のまま、藤牧失踪の真実は分からずじまいとなってしまっている。
川底に沈み、煙にまかれた失踪の謎

画像:東京大空襲時の焼け跡が残る言問橋の親柱(2010年3月20日撮影) wiki c 江戸村のとくぞう
義夫が失踪した6年後には太平洋戦争が始まり、東京もまもなく空襲による戦火に焼き尽くされた。
多くの死者が出た戦中戦後の動乱の中で、たった1人のアマチュア芸術家の行方不明事件はすぐに忘れ去られてしまった。
先陣を切って藤牧義夫の人物像を後世に伝えたのは、彼の失踪の謎に最も近いと考えられる小野忠重だ。
小野の回想の中の義夫は、芸術家を志すも理想と現実の狭間で思い悩み、心を病んで世を儚んだ青年だった。
そして皮肉にも、小野が自ら保有する藤牧作品の多くを提供した遺作展がきっかけとなり、それまで信じられていた失踪の経緯が一転して疑わしいものとなった。
彼が失踪せず、戦後も芸術家として活動し続けることができていたのなら、おそらくは日本の芸術界に大きな影響を与えていただろう。
現在、藤牧義夫の墓は彼の故郷である群馬県館林市の法輪寺にあるが、そこに義夫の骨はない。
彼はあの雨の日に、隅田川の底に沈んだのか、東京湾に流されたのか、それともまったく別の場所にいるのだろうか。
この世に残されたのは、彼が短い生涯の中で生み出した珠玉の作品だけである。
参考 :
駒村吉重 (著) 『君は隅田川に消えたのか 藤牧義夫と版画の虚実』
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部
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