べらぼう~蔦重栄華之夢噺

滝沢瑣吉(津田健次郎)とは何者?京伝や蔦重との出会いを紹介!※べらぼう

江戸の大ベストセラー『南総里見八犬伝』を書いた、異才の戯作者

滝沢瑣吉(たきざわ・さきち)

〈のちの曲亭馬琴(きょくていばきん)〉

北尾政演/山東京伝(古川雄大)の紹介で、しばらくの間、蔦重(横浜流星)の耕書堂に手代として世話になることに。そこで働く傍ら、戯作者として黄表紙の執筆を始める。蔦重は新たな才能を競わせようと、勝川春朗(くっきー!)とのコンビを組ませるが…。

史実では、二十八年もの歳月を費やして伝奇小説『南総里見八犬伝』を完成させ、その愛読者は近代にまで及ぶ。

※NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」公式サイトより。

第40回放送「尽きせぬは欲の泉」で初登場の滝沢瑣吉(たきざわ さきち)、後に曲亭馬琴(きょくてい ばきん)。

ご存じ『南総里見八犬伝』の作者として、教科書でもお馴染みの人物です(※)。

(※)教科書では滝沢馬琴と教わりましたが、それは明治以降の呼び方で、生前はそのように呼ばれたことはなかったとか。

今回はそんな滝沢瑣吉(※)の前半生に焦点を当て、蔦重との出会いや戯作者デビューまでを紹介します!

(※)今回はわかりやすさのため、時期にかかわらず滝沢瑣吉で統一しましょう。

10歳で家督を押しつけられる

画像 : 長兄より家督を押しつけられた幼き日の馬琴(瑣吉)(イメージ)

滝沢瑣吉(さきち)は、明和4年(1767年)6月9日、江戸深川(江東区)に住む滝沢運兵衛興義(うんべゑおきよし)と、門(かど)の間に誕生しました。

幼名は滝沢春蔵(しゅんぞう)のち滝沢倉蔵(くらぞう)。

滝沢家は旗本・松平信成に仕える用人で、家族には長兄の滝沢興旨(おきむね)・次兄の滝沢興春(おきはる)・妹二人(お蘭お菊)がいます。

※三兄と四兄が早世しており、瑣吉は三男として育てられました。

幼いころから絵双紙などの文芸に親しみ、7歳で俳句を詠んだと言われています。どんな句だったのでしょうね。

やがて9歳となった安永4年(1775年)に父の興義が亡くなり、当時17歳だった長兄の興旨が家督を継ぎました。

しかし、主君が家禄を半減させたことから生活が困窮。翌安永5年(1776年)に興旨は松平家を去り、家督をわずか10歳の瑣吉に押しつけます。

次兄の興春は既に他家へ養子に出ており、母と妹たちは興旨と共に去ったため、瑣吉はたった一人で取り残されたのでした。

ひど過ぎるとしか言いようがありませんが、それほどまでに家禄が貧しかったのかも知れません。

ともあれ家督を継いだ瑣吉は、松平信成の孫・松平八十五郎(やそごろう)に仕えます。

しかし八十五郎は大層な癇癪持ちで、それに耐えかねて安永9年(1780年)に松平家を出奔。

長兄の興旨らと同居しました。

学問を修めるも放蕩無頼の生活

画像 : 放蕩無頼の馬琴(イメージ)

そんな瑣吉は、15歳となった天明元年(1781年)、元服して滝沢左七郎興邦(さしちろう おきくに)と改名します。

興旨(俳号は東岡舎羅文)ともども越谷吾山(こしがや ござん)に俳諧を学び、17歳となった天明3年(1783年)に3句が吾山撰句集『東海藻』入選。この時、馬琴の俳号を初めて使うようになりました。

俳諧を深めた瑣吉は、天明7年(1787年)になると自身の俳文集『俳諧古文庫』を編集します。

また、身を立てるために医術を山本宗洪(そうこう)・山本宗英(そうえい)親子に学び、儒学を黒沢右仲(うちゅう)・亀田鵬斎(ほうさい)に学びました。瑣吉としては、医術よりも儒学の方が好みだったとか。

才能はあったものの尊大な性格であったらしく、瑣吉は興旨の紹介で戸田家に徒士(かち)として仕えたものの、長続きしませんでした。

その後も武家を転々と渡り歩き、放蕩無頼の暮らしを送っていたそうです。

天明5年(1785年)には母の臨終に際して瑣吉の居場所がわからず、兄たちが駆けずり回って何とか間に合いました。

その後、貧しい暮らしの中で次兄の興春が急死するなど、瑣吉の身辺は不幸が続きます。

山東京伝の(自称)弟子になり、蔦重と出会う

画像 : 鳲鳩斎栄里「江戸花京橋名取 山東京伝像」Public Domain

月日は流れて寛政2年(1790年)、24歳となった瑣吉は、戯作者として有名だった山東京伝(さんとう きょうでん)を訪ね、弟子入りを乞いました。

京伝はめんどくさかったのか関わり合いを嫌ったのか、瑣吉の申し出を断りますが、それから親しく出入りするようになったそうです。

寛政3年(1791年)には黄表紙『尽用而二分狂言(つかいはたしてにぶきょうげん)』を出版、京伝門人大栄山人(だいえいさんじん)の名で戯作者デビューを果たしました。ちゃっかり「京伝門人(弟子)」と名乗っていますね。

この年に京伝は、教訓読本『仕懸文庫(しかけぶんこ)』『娼妓絹籭(しょうぎきぬぶるい)』『青楼昼之世界錦之裏(せいろうひるのせかい にしきのうら)』を書いた罪で手鎖50日の刑を受け、戯作を控えることに。

そこで瑣吉が京伝の代筆を務め、寛政4年(1792年)の『実語教幼稚講釈』などを手がけるようになりました。

ちなみに寛政3年(1791年)の秋に、深川の自宅が洪水に見舞われ、瑣吉は京伝のもとへ転がり込んで食客(しょっかく。居候)となっています。

かくして戯作者として頭角を現しつつあった瑣吉は、寛政4年(1792年)に蔦屋重三郎から才覚を見込まれ、手代として雇われることになりました。

武士が商人に仕えることを恥じて、瑣吉は武士の身分と名を捨て、諱を解(とく/とくる)と改名します(通称の瑣吉もこの時から)。武士の身分を解いたのでしょうね。

結婚と家庭生活

画像 : 曲亭馬琴の子・滝沢興継。渡辺崋山筆 Public Domain

そして27歳となった寛政5年(1793年)7月、蔦重や京伝の勧めで結婚しました。

相手は会田百(あいだ もも)。

元飯田町中坂の世継稲荷(現代の築土神社)そばで、履物屋「伊勢屋」を営む未亡人です。

当時30歳の姐さん女房、婿入りの形でしたが会田には改姓せず、滝沢清右衛門(せいゑもん)と名乗りました。

瑣吉は家業の履物屋にはあまり乗り気でなく、子供たちに手習いを教えたり、豪商の長屋で家守(賃貸管理)を務めたりして生計を立てます。

また、書家の加藤千蔭(ちかげ)に入門して書を学び、噺本や黄表紙の執筆を手がけたそうです。

やがて寛政7年(1795年)に義母が亡くなると、待ってましたとばかり申し訳程度に営業していた履物屋を廃業、文筆業に打ち込むようになりました。

ちなみに妻との間には、一男三女を授かっています。

・長女:滝沢幸(さき)…寛政6年(1794年)生
・次女:滝沢祐(ゆう)…寛政8年(1796年)生
・長男:滝沢鎮五郎(しずごろう。宗伯興継)…寛政9年(1797年)生
・三女:滝沢鍬(くわ)…寛政12年(1800年)生

どうでもいいのですが、長女と次女は幸とか祐とか言った幸せを願う愛情が感じられる一方、三女の鍬は農具。

この差は何だったのでしょうか。

滝沢瑣吉(曲亭馬琴)基本データ

画像 : 曲亭馬琴 Public Domain

生没:明和4年(1767年)6月9日生~嘉永元年(1848年)11月6日没(82歳)
改名:滝沢春蔵(幼名)⇒滝沢倉蔵(幼名)⇒滝沢左七郎興邦⇒滝沢瑣吉解⇒滝沢清右衛門
別名:著作堂主人・笠翁(りつおう)・篁民(こうみん)・蓑笠漁隠(さりつぎょいん)・飯台陳人(はんだいちんじん)・玄同(げんどう)等
出身:江戸深川(東京都江東区)
両親:父親 滝沢運兵衛興義/母親 門
兄弟:長兄 滝沢興旨、次兄 滝沢興春、妹2人
身分:武士⇒町人
職業:松平家用人⇒戸田家徒士⇒浪人⇒蔦屋手代⇒履物屋⇒戯作者など
師匠:越谷吾山(俳諧)、山本宗洪・山本宗英(医術)、黒沢右仲・亀田鵬斎(儒学)、山東京伝(戯作)、加藤千蔭(書道)
伴侶:会田百
子女:滝沢幸、滝沢祐、滝沢鎮五郎、滝沢鍬
著作:『高尾船字文』『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』など
備考:『南総里見八犬伝』の大ヒットにより、原稿料だけで生計が立てられた日本初の専業作家と言われる。

終わりに

画像 : 曲亭馬琴『南総里見八犬伝』の一幕。月岡芳年「美勇水滸傳 里見二郎太郎義成」Public Domain

瑣吉は30歳となった寛政8年(1796年)に蔦屋耕書堂から読本『高尾船字文(たかおせんじもん)』を出版。

これが彼の出世作となりました。

そして寛政9年(1797年)に蔦重が世を去って、大河ドラマは幕を下ろしますが、瑣吉の活躍はここからが本格始動となります。

第40回「尽きせぬは欲の泉」

身上半減の刑を受けた蔦重(横浜流星)は、営業を再開し、執筆依頼のため京伝(政演)(古川雄大)を訪ねる。妻の菊(望海風斗)から、滝沢瑣吉(さきち)(津田健次郎)の面倒をみて欲しいと託される。蔦重は手代扱いで店に置くが、瑣吉は勝川春章(前野朋哉)が連れてきた弟子・勝川春朗(くっきー!)とけんかになり…。蔦重は歌麿(染谷将太)の描いたきよの絵から女性の大首絵の案を思いつき、歌麿に会いに栃木へ向かう。

※NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」公式サイトより。

登場するや否や蔦屋の店先で勝川春朗(くっきー!)と喧嘩を繰り広げる瑣吉ですが、本作ではどのような活躍を魅せてくれるのでしょうか。

津田健次郎の熱演に期待ですね!

※参考文献:
・麻生磯次『人物叢書 滝沢馬琴』吉川弘文館、1987年10月
・杉浦日向子 監修『お江戸でござる 現代に活かしたい江戸の知恵』ワニブックス、2003年9月
・高牧實『馬琴一家の江戸暮らし』中公新書、2003年5月
文 / 角田晶生(つのだ あきお) 校正 / 草の実堂編集部

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