「禁断の聖域」

画像 : 『御歴代百廿一天皇御尊影』より「崇神天皇(すじんてんのう)」public domain
日本の天皇は、今上天皇を含めると126代を数える。
ただし、初代・神武天皇から第9代・開化天皇までは架空の存在とされており、実在性はきわめて低いと考えられている。
諸説あるものの、実在した最初の天皇は第10代・崇神天皇とされる。
しかし、そこから今上天皇に至るまで皇統が一貫して継続しているかどうかについては、疑問視する声も少なくない。
これまた諸説あるが、崇神天皇から第14代・仲哀天皇までを「崇神王朝」、第15代・応神天皇から第25代・武烈天皇までを「応神王朝」、そして第26代・継体天皇以降を「継体王朝」とみなす「三王朝交替説」と呼ばれる学説も唱えられている。
つまり、古墳時代に皇統の断続があり、複数の王朝が交替したとする説である。

画像:今城塚古墳。継体天皇の真陵とされる。wiki.c
やがて第26代・継体天皇以降の王統は、後世に編纂された史書の中で、初代・神武天皇から続く「万世一系」の皇統と位置づけられるようになった。
こうした系譜観は『日本書紀』にも、「王家は入れ替わることはなかった」と記されるなど、天皇家の正統性を示す根拠として用いられていく。
戦前の日本では、この万世一系の観念が国家的な歴史観として広く受け入れられ、教育や思想の中に定着していった。
こうした歴代天皇の陵墓、すなわち「天皇陵」は、現在すべて宮内庁によって管理されている。
前述のとおり、初代から第9代の天皇の実在性には疑問があるにもかかわらず、それらの天皇についても陵墓が定められている。
さらに、宮内庁が管理する陵墓は、歴代天皇にとどまらず、皇族や妃、皇子などを含めて896ヵ所にのぼる。
これらの陵墓は厳重に管理されており、学術的な調査を含め、原則として一切の立ち入りが禁止されている。
まさに、それは「禁断の聖域」と呼ぶにふさわしい場所といえるだろう。
全国で10数例しかない希少な「八角墳」
このように諸説ある天皇陵だが、初代・神武天皇から昭和天皇までのものとして、現在124基が存在している。
このうち、「古墳」と呼べるものは、初代神武天皇陵から第42代文武天皇陵までの42基である。
これら天皇陵古墳の変遷を歴史学・考古学的に見ると、前方後円墳(おおよそ3世紀から6世紀中頃)→方墳(6世紀中頃から7世紀中頃)→八角墳(7世紀中頃から8世紀初頭)という流れをたどっている。

画像:牽牛子塚古墳。斉明天皇の真陵と目される。(撮影:高野晃彰)
この中で、八角形という形はきわめて特異であり、天皇陵としてほぼ確実に確認されているのは、以下の5例に限られる。
・第34代・舒明天皇陵(段ノ塚古墳)
・第35代・皇極天皇および第36代・斉明天皇の合葬陵(牽牛子塚古墳)
・第38代・天智天皇陵(御廟野古墳)
・第40代・天武天皇および第41代・持統天皇の合葬陵(野口大墓古墳)
・第42代・文武天皇陵(中尾山古墳)

画像:中尾山古墳。文武天皇の真陵と目される。(撮影:高野晃彰)
また、天皇陵以外にも八角墳は存在し、全国で7例が確認されている。
・奈良県:束明神古墳(草壁皇子の墓とされる)
・東京都:稲荷塚古墳
・山梨県:経塚古墳
・群馬県:一本杉古墳、三津屋古墳
・兵庫県:中山荘園古墳
・広島県:尾市一号古墳
束明神古墳を除く八角墳のなかには、7世紀前半に築造されたと考えられるものがあり、畿内の天皇陵よりも先行して造られていた可能性がある点は注目に値する。
ただし、畿内とそれ以外の八角形墳には、構造上の違いがある。
畿内の八角形墳は、盛土を版築工法で固め、墳丘裾に巡らされた外護列石が厳密な計画のもとで八角形に配置されており、それによって正確な八角形を呈している。
これに対し、地方の八角墳では版築が行われておらず、墳形も畿内と比べると完全な正八角形とは言いがたい。
いずれにせよ、全国におよそ16万基あるとされる古墳の中で、終末期だけに存在した八角形墳の数はごくわずかであり、きわめて稀少な存在であると言わざるを得ない。
「八角」の意味とは

画像:八角形をなす高御座。天皇の玉座で皇位を象徴する CC BY 4.0
では、八角墳の「八角」とは、どのような意味を持つのだろうか。
八角墳の形については、中国から伝来した仏教思想や道教的思想に由来するという説がある。
仏教思想に基づく説では、法隆寺夢殿などの寺院に見られる八角形の堂宇を例に、死者への鎮魂の意味が込められているとされる。
すなわち「八角形墳は仏教思想に基づいた霊廟である」という見方である。
一方、道教的思想に基づく説では、「地(国土・国家)は方なり」とする概念が背景にあるとされる。
また、中国において八角形の壇は皇帝の儀礼を象徴するものであり、それに基づいた政治思想が反映されているとする説もある。
大化の改新と重なる「八角墳」
これらの説はいずれも一理あるが、特に注目すべきは、天皇陵が方墳から八角墳へと変化した時期が、乙巳の変に端を発する大化の改新と重なる点である。

画像:乙巳の変 暗殺される蘇我入鹿 public domain
大化の改新は、それまで方墳を築いていた大王家が、協調を余儀なくされていた強大な豪族・蘇我本宗家を打倒し、新たに中央集権国家の礎を築いた大改革であった。
八角墳を最初に採用した舒明天皇は641年に崩御しているが、その4年後には、中大兄皇子と大海人皇子によって大化の改新が断行・推進されることになる。
両皇子の父が舒明天皇であり、その皇后こそが、大化の改新の表舞台で為政者として活躍した二人の母・斉明女帝だった。
大化の改新により、大王家を中心とした有力豪族による連合政権は終焉を迎えた。
それまで大王に対して緩やかな主従関係を結んでいた豪族たちは、以後、「天皇」と称されるようになった権力者の下に服従し、貴族として国家体制の一部に組み込まれていく。
八角墳に葬られた斉明天皇・天智天皇・天武天皇・持統天皇・文武天皇の時代は、日本史上まれに見る天皇親政の時代であった。
彼らは絶対的な権力を持つ統治者として、律令国家の建設を強力に推し進めていった。

画像:天武・持統両天皇が眠る野口王墓古墳。(撮影:高野晃彰)
八角墳の「八角」という概念は、天下を治める支配者のシンボルであった。
このように、八角墳は新たな時代を迎えようとする飛鳥時代後期において、権威の象徴として天皇陵に採用され、長く続いた古墳文化の最終章を彩ったのである。
参考 :
矢澤高太郎著 『天皇陵の謎』文春新書 他
文:写真/高野晃彰 校正/草の実堂編集部
この記事へのコメントはありません。