血で血を洗う戦国乱世、多くの者たちが一国一城の主を夢見て、壮大な野望に身を焦がしました。
今回はそんな一人・富田長繁(とんだ/とだ ながしげ)を紹介。
越前の狂犬とも評された生涯は、果たしてどんなものだったのでしょうか。
信長に降伏するが……

画像 : 織田信長 public domain
富田長繁は天文21年(1551年)、富田吉順(よしまさ)の子として誕生しました。
祖先は出雲国(島根県東部)にルーツを持つとされ、曽祖父の代に越前国へ渡ってきたと言われています。
元服して通称を弥六郎(やろくろう)と名乗り、朝倉義景に仕えました。
史料上の初出は元亀元年(1570年)4月。織田信長が越前国へ侵攻した際、一千騎を率いて出陣しています。
このことから、朝倉家中で相当の地位を占める重臣であったと言えるでしょう。
しかし元亀3年(1572年)8月、前波吉継(まえなみ よしつぐ)・毛屋猪介(けや いのすけ)・戸田与次郎(とだ よじろう)らと共に織田へ寝返りました。
対浅井・朝倉戦で武功を重ねた長繁は、天正元年(1573年)8月の朝倉滅亡後に越前府中領主と任ぜられました。
同僚の前波吉継は桂田長俊(かつらだ ながとし)の改名し、越前国守護代を拝命しています。
しかし長繁と桂田は仲が悪く、互いに口撃を繰り返した挙句、暗殺を企てるまでになりました。
長繁は桂田の圧政に苦しむ者を煽動して越前国内を回り、年明けの天正2年(1574年)1月18日に大規模な土一揆を起こします。
ここに長繁の国盗り物語が幕を開けたのでした。
七日間で越前を制圧

画像 : 富田長繁の挙兵(イメージ)
一揆勢は、挙兵翌日の1月19日には総勢3万3,000とも伝わる規模に膨れ上がり、怒涛の如く一乗谷へ殴り込んで桂田を血祭りにあげます。もちろん家族も皆殺しです。
よほど桂田に虐げられていたのでしょう。民衆の力を利用して、まんまと国を覆したのでした。
かくして武力ずくで越前国の支配者となった長繁は、北ノ庄にいた信長の代官である木下祐久(きのした すけひさ)・津田元嘉(つだ もとよし)・三沢秀次(みさわ ひでつぐ)らを襲撃します。
完全に織田政権を敵に回す勢いでしたが、そんなことをすれば、今度こそ越前国が滅ぼされかねません。
事態を憂慮した安居景健(あご かげたけ。朝倉景健)や朝倉景胤(かげたね)らが長繁を説得し、彼ら三人の命はとらず、追放処分に留めたそうです。
しかしまだ安心はできません。鳥羽野城主の魚住景固(うおずみ かげかた)は仁政をしき、領民たちからしたわれていました。
このままでは、景固こそ越前国主にと推す声が出ないとも限らないでしょう。
そこで長繁は1月24日、景固・彦四郎父子を朝餉に招待し、その場で斬殺してしまいます。
間髪入れず翌1月25日には残った魚住一族を攻め滅ぼしたのでした。
かくして長繁は、越前国をその掌中に収めたのです。
越前一向一揆の勃発

画像 : 担ぎ上げられた七里頼周(イメージ)
しかし元から何の遺恨も対立もなく、人々から慕われていた景固を暗殺したことで、人々は疑心暗鬼に陥りました。
そりゃそうでしょう。何の落度もないのに、ひとたび気に入らないとなれば誰でも殺すような人物に心を許せるはずもありません。
長繁は1月29日に禁令(※)を出すなどさて人心掌握に努めたものの効果は薄く、徐々に孤立していきました。
(※)国中屋銭賦課=住宅税の廃止、土民直訴=裁判権の容認など。
やがて「長繁が信長に降伏し、織田政権下で越前守護に認めて貰おうとしている」との風聞が流れ、いよいよ土一揆の者たちは長繁を見限ります。
そして加賀国(石川県南部)から一向宗門徒の七里頼周(しちり らいしゅう/よりちか)を招いて総大将に担ぎ上げ、長繁に叛旗を翻しました。
こうして土一揆は、一向一揆へと発展していきました。
蜂起した一向一揆はおよそ十四万、2月13日には長繁の腹心となっていた毛屋猪介や増井甚内(ますい じんない)を血祭りに上げ、翌2月14日には長繁のいる越前府中を包囲しました。
まさに狂犬!激闘の果てに

画像 : 富田長繁の最期(イメージ)
東から三万、南から二万。西から四万、北から五万……よほど民衆が長繁を憎んでいたかが察せられます。
対する長繁はわずか七百。最早これまでと決死の覚悟で斬り込んだところ、烏合の衆であった一揆勢はにわかに潰走。長繁らは二千とも三千とも言われる首を獲りました。
かくして血路を拓いた長繁は「永代三千石(永久保証)」の恩賞で、府中の町衆や一向一揆=本願寺と対立する真宗門徒を掻き集め、にわかに六千ばかり動員します。
そして北之庄城の奪取を目指し、2月17日に出撃して一向一揆を蹴散らしました。
兵数でこそ劣っても、やはり歴戦の猛者である長繁に利があったようです。
この勢いで安居景健や朝倉景胤を攻め滅ぼそうと、将兵の疲労も構わず長繁は進撃を続けました。
遮二無二攻めかかって一定の戦果こそ上げたものの、限界を超えていた将兵は、もうどうにも攻め切れません。
「まったく不甲斐ない。明日こそは何としても攻め抜くぞ!」
再度突撃を下知する長繁でしたが、人を人とも思わぬ酷使ぶりに、愛想を尽かされてしまったようです。
翌2月18日、味方の小林吉隆(よしたか)に背後から銃撃され、倒れたところ首を掻き斬られてしまいました。
享年24。その首級は2月19日に杉浦玄任(すぎうら げんとう)の陣へ届けられ、首実検に供されます。
終わりに
今回は「越前の狂犬」と評された富田長繁について、その野望と死闘の壮絶な最期を紹介しました。
狂ったように戦い続ける姿はまさに狂犬、また古代中国の(秦末〜前漢)の豪傑・樊噲(はん かい)にも喩えられたそうです。
長繁の戒名は中道院現住秀運法院、墓所は福井県鯖江市の長泉寺町にあり、今も人々を見守っていることでしょう。
参考文献:
谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第2版』吉川弘文館、2010年10月
文 / 角田晶生(つのだ あきお)校正 / 草の実堂編集部

























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