戦国時代

高坂昌信と甲陽軍鑑 【武田氏の歴史を今に伝えた武将】

武田信玄、武田勝頼父子に仕えた武田家の譜代家老、春日虎綱(かすがとらつな)は、高坂昌信(こうさかまさのぶ)の名で知られている。

武田四天王のひとりとして、唯一勝頼の代まで生き延びており、武田家の軍事的史料である「甲陽軍艦」は、昌信の口述が基本となった。後世に武田家の記録を残した高坂昌信だが、反面、個人的には信憑性に足る記録がほとんどない
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複数の名を持つ武将

高坂昌信と甲陽軍鑑
※主君となる武田信玄

幼名を春日源五郎(かすがげんごろう)という。

1527年、甲斐国石和郷(現・山梨県笛吹市石和町)にて、農民である春日大隅の子として生まれた。姉がいたようだが、源五郎15歳のときに父の死をきっかけに不和となり、武田家に仕えることとなる。

伝令などを務める使番に始まり、25歳のときには足軽大将となった。この頃に春日弾正忠を名乗り始めた。弾正左衛門尉とは、「弾正台」に由来する官位であるが、当時は形骸化しており、自ら名乗ることが多かった。事実、武田家家臣団においては「逃げ弾正」の高坂昌信、「槍弾正」の保科正俊、「攻め弾正」の真田幸隆が弾正忠を名乗り、「戦国の三弾正」と称している。

なお、2009年のNHK大河ドラマ「天地人」では、高坂弾正昌信となっている。

武田氏が信濃攻略を始めた1553年には、小諸城(現・長野県小諸市)の城代となるが、この頃に武田家に臣従した香坂家の娘を娶ったとされ、姓を「香坂」に改めたと思われる。香坂は、現在の長野県佐久市香坂に由来する一族であり、高坂とも書くために昌信の姓も「香坂」や「高坂」と記されることとなった。他にも香坂虎綱、高坂昌忠など複数の呼び名があるが、ここでは高坂昌信として話を進めたい。

海津城代


※高坂昌信が城代を務めたとされる松代城址(旧・海津城)

1556年、香坂家当主、香坂宗重(こうさかむねしげ)は、川中島に知行替えしており、その後、同地に「弾正館」と呼ばれる城を築いていることから、昌信が宗重の娘婿であるとされる。しかし、昌信の名を冠した城が築かれているという時点で養父との力関係は明らかであった。

翌年、弾正館は第三次川中島合戦で焼失しており、香坂氏は川中島地域の拠点として松代に海津城(現・松代城)を築城し、対上杉氏への最前線の役目を担うことになる。築城にあたり、香坂氏のほか、同地方四郡の有力武士が担当した。完成後は、高坂昌信が城代となり、1561年の第四次川中島合戦では、海津城に篭城した昌信は信玄率いる武田本隊の到着まで持ちこたえたという。「甲陽軍艦」では、これをもって四次川中島合戦が開戦したと記されている。

また、海津城の同地における拠点的機能から、城代となった昌信は武田氏において川中島地方を統括する権限を担っていたと考えられる。なお香坂氏は、第四次川中島合戦直前に上杉氏と密通していたということで処刑されており、この時点で香坂家の家系は昌信によって継承されることとなった。

第四次川中島合戦


※第四次川中島合戦における武田軍、上杉軍の動き

当時、相模国を支配していた北条氏三代・北条氏康と武田氏は同盟関係にあった。北条氏は上杉謙信(政虎)とは敵対関係にあり、北条氏からの要請によって武田氏が海津城を築城したという経緯がある。これにより、北条氏攻略のために関東へ遠征していた上杉軍は撤退を余儀なくされ、海津城の攻略が最優先となった。

これが、第四次川中島合戦へと発展する。

川中島に到着した上杉軍は、海津城に近い千曲川沿いの妻女山に陣を敷いた。高坂昌信は、馬場信房らと共に別働隊12,000を率いて妻女山に向かうも、謙信に動きを読まれて取り逃がしている。その後は上杉軍が武田軍本隊に反撃を仕掛け、乱戦の後に両軍が勝利を主張する泥仕合となった。

なお、高坂昌信においては、この時期には姓を「春日」に戻しており、合戦後も引き続き海津城において北信濃地方を統治している。

世代交代へ


※長篠合戦図屏風。この戦いで武田軍は、織田信長・徳川家康の連合軍と戦った。

1572年には三方ヶ原の戦いに参戦したというが、これも「甲陽軍艦」による記述であり、その他の武田氏の戦いにおいては出陣していないことも多かったと推測できる。三方ヶ原の戦いでは当時45歳であり、武将としては十分に第一線で戦える歳ではあるが、それ以外の戦においては、対上杉の拠点である海津城を空けるわけにはいかなかったのだろう。

翌1573年に主君・武田信玄が没すると、後継者となった武田勝頼に仕え、海津城代のまま長篠の戦いには参戦しなかったといわれている。勝頼の時代には若き世代が台頭してきており、昌信ら古参の譜代は第一線を退いていたようだ。長篠の戦いにおいても昌信ではなく、嫡子の昌澄が参戦したが戦死している。

さらにこの戦いで大敗を喫した武田氏は急速にその力を落とすことになるのだが、戦後処理のために昌信が家臣団の再編や、戦場を離脱した穴山信君武田信豊を切腹させることにより敗戦の責任を取らせるよう勝頼に進言したとされる。

晩年と甲陽軍鑑の成立

1578年、昌信51歳のとき、上杉家では謙信の没後に跡目争いの「御館の乱」が勃発。昌信は、上杉景勝側に接触し、後の甲越同盟締結の足掛かりを築いた。しかし、その交渉の最中に昌信の名は史料から消えており、確認できるのは翌年6月に海津城にて死去したということだけだ。

昌信の命日についても諸説あり、彼の人生同様に多くの謎を残したままこの世を去っている。

昌信の没後は、次男の信達が春日氏の跡を継ぎ、海津城代も務めた。信達は、甲越同盟の交渉も継承している。また昌信は、長篠の戦いの後に武田氏の将来を案じ、勝頼ほか、武田氏家臣に後を託す意味で、武田氏の戦略・戦術記録を口述筆記で残した。これが代々引き継がれ、江戸時代には「甲陽軍鑑」として成立することになり、現代においても武田氏の歴史を紐解くのに重要な史料となったのだ。

最後に

甲陽軍鑑は、幕府や諸大名にとっての教本として受け入れられ、庶民にも広がっていった。しかし、一方で武田氏の主観的な記録であることから内容的には否定的な意見も多く、昌信と同時期に信玄に仕えた山本勘助の息子などは、甲陽軍鑑の原典は父が記したものだと言っている。だが、山本勘助という武将が実在したのかも甲陽軍鑑による記述に頼るしかないというのは皮肉な話である。今回、昌信の生涯を調べるに当たっても、甲陽軍鑑以外の出典がほぼないことから、ことのほか裏付けにも苦労した。

いずれにせよ、武田氏二代に仕えたことにより、歴史的に価値のある史料が残されたことは高坂昌信の大きな功績といえるだろう。

関連記事:武田氏
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山本勘助は本当に実在したのか?【信玄の軍師】
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