朝ドラ「あんぱん」で中沢元紀さんが演じる柳井嵩の弟・千尋。
家族思いの優しい好青年です。
ドラマでは、千尋は弁護士を目指し京都帝国大学法学部へと進学しましたが、史実でも千尋のモデル・柳瀬千尋さんは京大に進んでいます。
やなせたかし氏によると「長身のイケメンだった」という千尋さんは、どのような学生時代を送っていたのでしょう。
今回は、柳瀬千尋さんの大学生時代までのエピソードを紹介します。(以下敬称略)
女の子として育てられた幼少時代

画像 : 少女(イメージ)『金の船・金の星』public domain
柳瀬千尋は、大正10年(1921年)6月15日、東京に生まれました。
兄の嵩によれば、二人の名前は、嵩は「嵩山(すうざん)」という中国の山から、千尋は「千尋の海」から取られたそうです。
兄が山、弟が海を象徴するように、二人の名前には深い意味が込められています。
幼い頃の千尋は体が弱く、心配した両親は女の子の格好をさせて育てました。
当時「身体の弱い子は、女の子のように育てると丈夫になる」という習わしがあったからです。
おかっぱ頭に赤い着物は、色白で目がぱっちりとした千尋によく似合いました。
道行く人に「かわいいお嬢ちゃんね」と声を掛けられることも多く、そのたびに千尋は「男の子だい!」と言って、着物のすそをまくり上げ、男の子のシンボルを見せたそうです。
嵩が中学生の頃、食卓にその話がのぼると、千尋はバツが悪そうにはにかみ、その様子に家族からはまた笑い声がもれるのでした。
明るく活発な千尋は、だれからも愛される子どもだったのです。
学業と柔道に励んだ中学時代

画像 : 武蔵高等学校の試験風景(イメージ)public domain
城東中学(現在の高知県立追手前高校)に進学した千尋は、柔道部に入部し、めきめきと腕を上げていきます。
この頃には体も丈夫になり、体つきも変わりました。
長身の千尋は教室の一番後ろの席に座り、物静かで学業にも運動にも秀でた優等生でした。
当時の中学生にとって、進学先の一つである旧制高校は、帝国大学に進学するための準備教育機関という位置づけでした。
旧制高校に入学できれば、帝国大学への進学がほぼ確約されていたのです。
しかし、昭和10年(1935年)頃の旧制高校は、全国にわずか32校。そのため入試は熾烈を極めました。
城東中学校には、学年で1番から50番までの成績優秀者を集めた「優秀組」があり、千尋はその中の一人でした。
優秀組の1番は常に不動で、2番以下は目まぐるしく変わり、千尋は2番を取ったり取られたりの激戦の中にいたそうです。
結局、優秀組からは、千尋を含め7人が四年次修了で旧制高校へと進学しました。
ちなみに不動の1番は、第一高等学校、「一高」へ進学したそうです。
酒豪だった千尋 旧制高知高等学校時代

画像 : 旧制高校のストーム public domain
旧制高知高等学校(現在の高知大学)に入学した千尋は、柔道部に所属します。
この頃には黒帯で二段。さぞ活躍しただろうと思いきや、残念ながら柔道部はあまり強くなかったそうです。
高知高校は、全校450人ほどの規模で、修業年限は3年間。
1学年5クラスで、文科と理科にわかれ、文甲が2クラス、文乙が1クラス、理甲、理乙ともに1クラスの編成でした。
甲は英語、乙がドイツ語のクラスです。
初年度は全員「南溟寮」に入ることになっており、千尋も寮生活を送っています。
旧制高校の学生といえば、「弊衣破帽(へいいはぼう)」と呼ばれる破れた衣服や白線帽を身にまとうスタイルが有名です。
また、寮歌を高らかに歌う「高歌放吟(こうかほうぎん)」や寮生の、ドンチャン騒ぎ「ストーム」でも知られていました。
彼らはデカルト、カント、ショーペンハウアーを「デカンショ」と略し、哲学書を読んでは熱く議論を交わすことを好みました。
千尋も友人たちと、幾度となく「人生の価値」について語り合ったそうです。
このように学業を中心とした生活でしたが、時には若さの勢いで羽目を外すこともありました。
なにかの余興だったのでしょうか。
友人のアルバムには、千尋がセーラー服を着て、おさげ髪のかつらをかぶった写真が残っています。
また、千尋はかなりイケる口で、彼の酒豪ぶりは仲間内でも有名でした。
大酒飲みの千尋を心配した友人が、「少し控えた方がいい」と忠告の手紙を寄こすほどだったそうです。
しかし、飲んでも呑まれることはなく、誰に聞いても悪く言う人がいないほど、千尋は穏やかで親しみやすい性格の持ち主でした。
青春を謳歌した京都帝国大学時代

画像 : 帝国大学生の代名詞・角帽 public domain
昭和16年(1941年)4月、千尋は京都帝国大学法学部(現在の京都大学法学部)に入学しました。
入学と同時に、土佐出身の学生のための寄宿舎「京都土佐塾」に入寮しています。
土佐塾は学生たちによる自主運営で成り立ち、300坪の敷地内には、二階建ての北寮と南寮が並び、約20人の学生が生活していました。
千尋は北寮に住み、運動場でキャッチボールを楽しんだり、野球の対抗試合に参加したりと、寮生たちとの青春の日々を満喫していました。
千尋の親友の広井正路は、小、中、高、大学と共に過ごした幼なじみで、子どもの頃からたがいの家を行き来し、深い絆を育んでいました。
千尋と広井は、同じ高校出身の仲間二人を加えた四人組で行動することが多く、入学後は京都の街を観光しています。
入学して間もない4月20日には、彼らが企画した第一回ハイキングが実施され、寮生の約7割が参加する大きな催しとなりました。
醍醐寺、岩間寺、石山寺を巡るハイキングのアルバムには、笑顔の塾生たちが記録されており、楽しい時を過ごした様子がうかがえます。
広井のアルバムに残された千尋の写真には、こんなコメントが記載されています。
柳瀬君の綽名(あだな)は「馬」でありました。その顔の人並み以上に長いためでありました。ある日、その柳瀬君が馬に乗っていました。しかも、その馬は銅像でありました。
門田隆将著『慟哭の海峡』より引用
幼い頃、お月様のようにまん丸だった千尋の顔は、成長とともにだんだんあごが長くなり、大学時代には「馬」というあだ名を付けられるほど長い顔になっていたのでした。
また、帝大生時代の千尋を、嵩はこのように書き記しています。
「僕のたった一人の弟は
美少年です
少し顔が長すぎるが
…(中略)…
弟は美少年でも女の人には余りモテません
色気がないからです
無作法で礼儀を知らぬからです
女給さんと話すのにもむっつり難しいことを言います
斗酒なお辞せず
ヴァレリイと三好達治のファン
優しい詩を作ります」梯久美子著『やなせたかしの生涯』より引用
エリートコースを歩む文武両道の帝大生は、女性のあしらい方には長けていなかったようです。
古都・京都で青春を謳歌していた千尋たちでしたが、戦争の足音は静かに、けれど確実に彼らのもとへと近づいていました。
昭和16年(1941年)10月、「緊急勅令」により、3年の修業年限が半年間短縮され、千尋たちの卒業は昭和18年(1943年)9月へと繰り上げられています。
時を同じくして、新聞には学生たちの軍事演習の様子が報じられるようになりました。
そして昭和16年(1941年)12月8日、太平洋戦争が始まります。
学び舎の中にいる彼らも、戦争の荒波から逃れることはできません。
戦場へと向かう運命は、もはや避けられぬものとなっていました。
昭和18年(1943年)春、卒業を半年後に控えた千尋たちは、花見へと出かけます。
鴨川沿いの桜を愛でつつ土手を歩く千尋は、その時、どんな気持ちで桜を見つめていたのでしょう。
哲学を語り、夢を語り、酒を酌み交わし、京都の街を歩き、弾けるような笑顔を写真に残していた千尋たち。
彼らが胸に抱いていた希望に満ちた未来への道は、いつのまにか戦場へと続く一本道へと変わってしまっていたのでした。
参考文献
門田隆将『慟哭の海峡』角川書店
梯久美子『やなせたかしの生涯』文芸春秋
やなせたかし『おとうとものがたり』フレーベル館
文 / 草の実堂編集部
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