昭和20年(1945)8月、広島で被爆したひとりの女優が命を落とした。
彼女の名は、園井恵子(そのい けいこ)。
透明感ある美貌と緻密な役づくりで知られ、宝塚歌劇団では名バイプレーヤーとして活躍し、映画『無法松の一生』で一躍注目を浴びた。
さらに新劇の舞台にも挑戦し、女優としての道を切り開いていったが、戦争の渦はその才能を容赦なく奪っていった。
ここでは、志半ばで散った未完の女優・園井恵子の生涯をたどる。
宝塚を夢見て、15歳で単身上阪

画像 : 園井恵子(18歳頃)と叔父・袴田多助一家 public domain
大正2年(1913)8月6日、園井恵子(本名・袴田トミ)は、父・清吉と母・カメの長女として、岩手県岩手郡松尾村(現・八幡平市)に生まれた。
祖父は松尾村の初代村長であったが、トミが1歳の時に亡くなり、その後一族はそれぞれ独立。
両親は同郡川口村(現・岩手町川口)に移住し、菓子の製造販売業を営むようになった。
幼少期のトミは、川口の小学校に通いながら、教師になることを勧められていたが、少女雑誌で宝塚少女歌劇を知るとその華やかな世界に強く憧れるようになった。
13歳の春には岩手女子師範附属小学校高等科に進学し、盛岡市の叔父・袴田多助宅から通学。
授業中も窓に映る自分の顔を使って表情の練習をするなど、早くから演技への興味を隠そうとしなかったという。
さらに翌年、叔父一家の北海道小樽市への転居に伴って同行し、北海道庁立小樽高等女学校に入学。
小樽では初めて少女歌劇を観劇し、その感動は彼女の宝塚への憧れをさらに強めた。
しかし、小樽での生活は長く続かず、2年足らずで女学校を退学して、岩手の両親のもとに戻ることになる。
宝塚への夢は諦められなかったが、周囲に理解者は少なく、実際に行動には移せないまま時が過ぎた。
そして昭和4年(1929)6月、15歳のトミはついに親戚の強い反対を押し切り、単身で大阪・宝塚へ向かう決意をする。宝塚音楽歌劇学校を訪ね入学を志願したが、すでに入学試験も式典も終わっていた。
しかし例外的に特別試験を受けることが許され、見事合格。憧れ続けた宝塚での生活がここから始まった。
家族を支え、度胸と才能で掴んだ初舞台

画像 : 宝塚歌劇時代の園井恵子 public domain
寄宿舎に入ったトミは、宝塚音楽歌劇学校予科の甲組に編入された。
憧れ続けた宝塚での日々は刺激に満ちていたが、遅れて入学したうえに社交的ではない性格もあり、周囲に溶け込むまでには時間を要した。
そんなある夜、寄宿舎の部屋で寝ていたトミの部屋に泥棒が侵入した。
物音に気づいたトミは「あなた、何してるの」と毅然と言い放ち、逆に泥棒を説教して追い返したという。
この出来事で「大した度胸だ」と評判になり、学内で一躍有名人となった。
昭和5年(1930)4月、トミは本科へ進級し月組に編入。同年4月公演『春のをどり』で「笠縫清乃」の芸名を名乗り、初舞台を踏んだ。
だがその矢先、両親が多額の借金を抱えて商売を失敗し、病身となった父と家族が宝塚に身を寄せることになる。
以後、園井は妹と二人で生計を支える立場となり、昼は舞台稽古、夜は家族の生活費を工面するという過酷な日々を送った。
昭和6年(1931)1月、芸名を「園井恵子」と改め、3月に本科を卒業。
8月の月組公演『ジャックと豆の木』では母親役の高千穂峯子が突然倒れたため、急遽代役を務める大役が巡ってきた。
開幕までわずか30分。園井は台詞も歌も一言一句間違えず演じきり、観客から大きな拍手を浴びたという。
さらに同年10月の『ライラック・タイム』では門番の女房役に抜擢され、劇中で最も人間くさいこの難役を見事に演じきる。
宝塚創始者・小林一三はこの演技を「今年最大の収穫だ」と絶賛し、園井は劇団内で高い評価を確立した。

画像 : 小林一三(いちぞう)阪急電鉄・宝塚歌劇団・東宝の創設者 public domain
名バイプレーヤーから、新劇への挑戦へ
昭和8年(1933)6月、宝塚歌劇団に新設された星組に月組から異動した恵子は、翌7月の星組初公演『なぐられ医者』でいきなり主役に抜擢された。
この演技で高い評価を得ると、以後は役が途切れることはなかった。
翌昭和9年(1934)3月の『アルルの女』では、主人公の母ローズ役を熱演。

画像 : 『アルルの女』(1934年)。母子を演じた葦原邦子と public domain
組の総力を結集したこの作品は大ヒットし、後年の再演や横浜劇場のこけら落としにも選ばれるなど、園井の代表作のひとつとなった。
しかし、家族を養うための生活は厳しく、園井は舞台稽古と生計の両立に追われていた。
昭和10年(1935)、その苦境を知った創始者・小林一三は、激励の手紙とともに現金100円を贈り、努力を讃えた。
※当時の小学校教員初任給で月額40〜55円。
封書を開けた恵子は、家族と涙を流しながら小林の厚意に感謝したという。
同年12月の公演『バービィ』では、主人公と結ばれるセシル役で出演し、大きな話題となる。
続編も制作されるなど、園井はますます重要な存在となり、宝塚雑誌『宝塚いろは歌留多』では「ワキ役に園井恵子の名演技」と称賛された。
演出家・久松一聲も「底力がありながら品位を失わぬ演技」と高く評価し、園井は名バイプレーヤーとして揺るぎない地位を築いた。
一方で、園井は宝塚独特の「甘い演技」に物足りなさを感じるようになり、築地小劇場などで新劇の舞台を観劇しては強く惹かれていった。
昭和13年(1938)に雪組へ異動した後も、戦時色の濃い中で家族を岩手に戻し、演技への探求心は衰えなかった。

画像 : 古川ロッパ一座『我が家の幸福』出演時(1942年)。左から高杉妙子、園井、古川ロッパ。public domain
昭和17年(1942)1月には、喜劇役者・古川ロッパ率いる古川緑波一座に客演し、そこで新たな演技の可能性を実感する。
同年9月、東京で上演された『ピノチオ』を最後に宝塚を退団。
退職金を辞退してまで強行した退団は、彼女が「より写実的な演技」を求めていた証でもあった。
その後、園井は丸山定夫や徳川夢声らが率いる新劇の劇団「苦楽座」に参加し、新たな道を歩み始める。
映画で注目を集め、広島で散った未完の大女優
宝塚退団後、園井恵子は新劇の舞台で活動しながら、昭和18年(1943)公開の大映映画『無法松の一生』で、阪東妻三郎と共演。

画像 : 『無法松の一生』スチル。「松五郎」役の阪東妻三郎と。子役は沢村アキオ public domain
阪東が演じる車夫・松五郎が、密かに想いを寄せる吉岡夫人役を見事に演じ、その自然な演技は高く評価された。
映画は大ヒットを記録し、園井も全国的に知られる存在となったが、大映からの専属契約の誘いには「折角ですが、私はまだ当分、新劇の苦楽座の人達と舞台の修行をしたいと思いますので」と答え、女優としての修行を選んだ。
しかし昭和19年(1944)、決戦非常措置要綱により都市部の劇場は次々と閉鎖され、政府は劇団に「日本移動演劇連盟」への参加を義務付け、国策演劇を行うように命じた。
園井の所属する苦楽座も「苦楽座移動隊」を結成し、各地で慰問公演を行うことになる。
昭和20年(1945)3月、この頃には空襲のため、移動劇団の長距離移動は危険なものになっていた。
そこで連盟は、劇団を各地方へ疎開させ、そこで公演を行わせるようにした。

画像 : 1945年1月、富士フイルム足利工場公演における桜隊記念写真。前列左から2番目が園井恵子 public domain
園井が大規模な空襲を心配する中、苦楽座移動隊は広島行きになり、さらにこの時から隊名を『桜隊』へと改めた。
6月、桜隊14名は広島に到着し、その後は広島を拠点に山陰地方まで巡演を重ねていった。
そして、8月6日午前8時15分、広島に原子爆弾が投下された。

画像:広島に投下された原爆。public domain
桜隊の宿舎は爆心地から約750メートルという至近距離にあり、建物は瞬時に倒壊した。
園井は爆風で庭に投げ出され、家屋の下敷きになったが、柱と階段のすき間に入り奇跡的にほぼ無傷で助かった。
その後、神戸の後援者宅で過ごし、終戦の報を受けた8月15日には「これでまたお芝居ができる」と未来への希望を語っていたという。
しかし、その言葉とは裏腹に、放射線障害の症状が急速に進行。
8月18日頃から髪が抜けはじめ、翌19日には高熱を発症。皮下出血や下血などの症状が次々と現れ、体力は急激に奪われていった。
20日にはついに床から起き上がることもできなくなり、息をすることさえ困難になっていた。
そして翌21日、氷で冷やしたガーゼを顔に当ててもらった園井は、かすかな声で「あー、気持ちいいわ」と呟いた。
これが最期の言葉となった。
その日の夕刻、宝塚歌劇団から退職金が届けられると、園井はそれを手に取り目の前に掲げたものの、すぐに力尽きるように意識を失い、家族や関係者に見守られながら静かに息を引き取った。満32歳没。
桜隊で被爆した9名は、園井を含め全員が1カ月以内に命を落としている。
園井の遺体は翌日荼毘に付され、9月1日に合同告別式が行われたのち、岩手県盛岡市の恩流寺に葬られた。
1952年には東京都目黒区の五百羅漢寺に桜隊原爆殉難碑が、1959年には広島市平和大通りに慰霊碑が建立され、今も多くの人々に弔われている。
さらに2019年、園井は宝塚歌劇団の「殿堂入り」顕彰者として加えられ、遺品の扇子や小林一三からの手紙、舞台写真などが宝塚大劇場内で展示された。
若く、才能にあふれながらも原爆により未来を奪われた園井恵子。戦時下、演劇の世界で生きていた彼女の命の輝きは、時を超えて今もなお語り継がれている。
参考 :
押田信子「兵士のアイドル」旬報社
千和裕之「園井恵子」国書刊行会
文 / 草の実堂編集部
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