江戸時代

江戸の人々も震えた…理解不能な二つの恐ろしい事件『三人娘の最期、継母の狂気』

画像 : 瓦版を読む女性と猫 歌川国芳 public domain

いつの時代でも、一見平穏に見える市井の暮らしの中で、思いもよらない事件が起きるものです。

戦乱の少ない「平和な時代」とされる江戸時代にも、耳を疑うような凄惨な犯罪が少なからず発生していました。

今回は、当時の瓦版「読売」にも掲載され、人々の話題をさらった二つの事件をご紹介します。

一つは、弘化四年(1847)に起きた「三人娘心中」事件。
もう一つは、嘉永七年(1854)に発生した「継子殺し」事件です。

いずれも、平穏に見えた江戸の町を揺るがし、人々を恐怖させた不可解な出来事でした。
いったい何が起きたのでしょうか。

仲良し三人の町娘が同じ若者を好きになり……

画像:仲のいい三人の娘たち 北尾重政 public domain

「三人娘心中」について、当時の瓦版「読売心中ばなし」をもとに、現代風に要約します。

弘化4年(1847)5月6日のことです。

神田鍛冶町の八百屋の娘・おひさ(17歳)、一ツ橋門前の酒屋の娘・おてつ(18歳)、そしてもう一人の娘(年齢未詳)の三人がいました。(八百屋のひさ、魚屋のちか、酒屋のよねの三人娘という説も)

三人娘はほぼ同年代で、普段から大変仲が良く、常磐津(三味線音楽)の稽古に一緒に通っていました。
その稽古仲間の中に、小間物屋の若者・徳兵衛という男がいました。

八百屋の娘・おひさは徳兵衛と親しい関係になっていましたが、ほかの二人への遠慮から、それを隠していたといいます。
しかし、そんなことを知らない酒屋の娘・おてつも徳兵衛に惹かれてしまい、やがて特別な関係になりました。

その後、三人の娘と徳兵衛の関係は、恋人同士でありながら友人でもあるという、互いに依存し合う不思議な関係になっていきました。(一部の史料では、徳兵衛は三人すべての娘と関係を持っていたとも)

5月5日、端午の節句の日。

稽古の師匠宅へ挨拶に行ったあと、三人娘と徳兵衛は芝居見物へ出かけ、その後は茶屋に立ち寄り、夜遅くまで語り合いました。

その場で「こんなふうに皆が関係を持つのは間違っている」という話題にもなりましたが、結局は「いけないことだと分かっていても、離れることはできない」という結論に至りました。

「私たちは誰一人寄り添う夫がいない」と嘆き…

夜更けまで話し込んでいたため、帰宅が遅くなった三人娘は、徳兵衛に「代わりに家へ行って謝ってほしい」と頼んだといいます。

しかし徳兵衛は「私からは行きにくい。他の人に頼んでほしい」と言い残し、その場を去ってしまったのです。

徳兵衛の言い方や態度が、よほど冷たかったのでしょうか。徳兵衛と別れた三人の娘は、涙を流しながら夜の浅草を歩きました。

画像 : 吾妻橋 国貞改豊国 public domain

吾妻橋を渡ると、そこには「夫婦橋」や「夫婦石」と呼ばれる名所がありました。

「橋や石でさえ、夫婦になって名を残すのに、私たちには寄り添う夫さえいない。前世からの因縁なのかしら」と誰かが呟くと、三人は声を殺して泣いたそうです。

そして、大川橋を渡るころには「生きていても、もう仕方がない」と心が決まってしまったとか。

その夜、三人娘は家に戻らず、親たちや近所の人々が大騒ぎで探しましたが見つかりませんでした。
それもそのはず、三人は手を取り合い、川の流れへと身を投げていたのです。

発見された三人の亡骸は、互いの体を腰紐で結び合わせ、しっかりと手を繋いでいたと伝わります。

この状況から、三人はそれぞれ徳兵衛の妻になるつもりでいたものの、徳兵衛にその意思はなく、誰も結ばれないと悟って絶望し、「いっそ三人で」と示し合わせて心中したのだろうと推測されました。

画像:川に飛び込む若い娘の姿。「月百姿 朝野川晴雪月 孝女ちか子 」月岡芳年 public domain

読売の「三人娘心中」の記事は、結びの言葉として、

「男女が八歳を過ぎたなら同席させぬようにと説かれている。もしその禁が破られれば、親の苦労は計り知れず、これこそ第一の不孝である。どうかこの事件を教訓とし、幼き者への戒めとされたい。」

という道徳的な教訓で締めくくられています。

三人娘心中は、実は殺人事件だった?

この「三人娘心中」は、『藤岡屋日記』という、当時の事件や世間の噂を記録した日記にも記されています。

実は、事件からしばらく経った6月頃のこと「三人娘の死は心中ではなかった」という噂が広がったのです。

『藤岡屋日記』には、次のような記録があります。

意訳 :

船頭を含む十二人の男たちが、三人の娘を船に連れ出して乱暴を働いた。そのとき一人の娘が大声で叫んだため口を塞ぐと、そのまま意識を失い命を落とした。残る二人も口封じのため殺害された。その後、娘が身につけていた帯を売り払ったが、古着屋でこれを親が発見したことから犯人が捕まり、六人が逮捕された。残る六人は捜索中である。

茶屋で男たちが「三人娘の心中」の噂をしていた際、隣にいた足軽風の男が「あれは身投げじゃないぜ」と、乱暴した話を自慢げに語り始めた。これを耳にした人物が密告し、その男は捕縛された。

つまり、三人の死は心中ではなく、事件に巻き込まれた可能性があるのです。

仲良し三人娘が同時に惚れた徳兵衛が、全員と関係を持っていたことに衝撃を受け「これじゃあ誰も結ばれない」と絶望して心中をしたというのも気の毒ですが、夜更けに徳兵衛と別れた帰り道で乱暴され、命を奪われたのであれば、あまりにも悲惨で理不尽な事件だったといえるでしょう。

画像:「船頭」歌川国貞 public domain

凄惨過ぎる継母による「釜茹で事件」

武州小金井で起こった凄惨な「継子殺し」の話も、現代風に解釈して要約してみました。

古今東西、継母のよる継子いじめの逸話は数多くありますが、これは「虐待」という言葉を凌駕する常軌を逸した事件です。

嘉永7年(1854)の4月上旬ごろ、武蔵国小金井村(現在の東京都小金井市)に住む、百姓庄右衛門の後妻となったおくわは、普段から7歳になる継娘を可愛がることなく、邪険にして虐待していました。

おくわは、その娘を手習い(読み書きなどを教える寺子屋)に通わせていたそうですが、毒入りの弁当を持たせて殺そうと企みます。

ところが、手習いの師匠は日頃からおくわの虐待を疑っていたため、弁当に仕込まれた毒に気づき、継娘には食べさせずに家へ送り届けました。

娘は家に戻りましたが、おくわは休ませることもせず、大きな釜に湯を沸かし始めました。
そして湯が沸くと娘を捕まえて、残酷にも熱湯の中へ投げ入れて殺してしまったのです。
その後、おくわは何事もなかったかのように装い、知らぬふりをしていたそうです。

その後、手習いの師匠が家に来て調べたところ、異常な様子に気づき、庄屋に通報します。
調査した結果、おくわが娘を釜茹でにして殺害したことがはっきりしたそうです。

記事は、「この事件を一枚の紙に記して広く知らせるものである。」という一文で締めくくられています。

画像:イメージ 釜茹でに処される石川五右衛門 歌川国貞 public domain

なぜ、おくわが継娘を釜茹でにまで追い込んだのか、また、なぜそんな大きな釜を持っていたのか、については記されていません。

釜茹でにして継娘を殺すという、おくわの執念が非常に不気味で陰惨な話です。

市井の人々の「理解できない出来事」が注目を集めた

三人娘の殺人の可能性もある心中事件や、継母による継娘殺しは、市井で起きた出来事です。

しかし、当時の人々にとっても「自分たちの尺度では理解できないような出来事」として、大きな注目を集めたそうです。

「江戸時代は戦がなく平和だった」と語られることもありますが、その一方で、鬱屈した感情を抱えた人々によって引き起こされる凄惨な犯罪や事件は少なくなかったようです。

今回の二つの事件も、偶然が重なったことでようやく発覚し、世間に知れ渡りました。

おそらく、こうした偶然がなければ闇に葬られ、記事にもならず、人々の記憶からも消えていった事件は数多くあったのでしょう。

ここで紹介した出来事は、当時の江戸社会に潜んでいた闇の、ほんの氷山の一角にすぎないのかもしれません。

参考:
『藤岡屋日記』『テーマで読み解く日本の文学 上: 現代女性作家の試み』他
文 / 桃配伝子 校正 / 草の実堂編集部

桃配伝子

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アパレルのデザイナー・デザイン事務所を経てフリーランスとして独立。旅行・歴史・神社仏閣・民間伝承&風俗・ファッション・料理・アウトドアなどの記事を書いているライターです。
神社・仏像・祭り・歴史的建造物・四季の花・鉄道・地図・旅などのイラストも描く、イラストレーターでもあります。

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