戦国時代

本当に美男子だったの?戦国時代のイケメン武将・上杉景虎の悲劇

報道によると、新潟県妙高市でスマホアプリ「なぞ解き戦国武将シリーズ 上杉景虎 妙高編」をインストールして楽しむ謎解きツアー(マイクロツーリズムイベント)「悲劇の美青年 上杉景虎をめぐる五つの謎に挑め!」が実施中とのことです。

※参考:
「軽トラでワーケーション」しながら、悲運の美少年「上杉景虎」の謎解きツアーはいかが?-INTERNET Watch

当イベントは妙高市が自動車メーカーや通信機器メーカーなどと共同開催、ワーケーション(※)オフィスを搭載した軽トラで上杉景虎ゆかりの名所旧跡を巡り、謎を解き明かしていく趣向となっています。

(※)ワーケーションWorkation:労働(ワークWork)と休暇(バケーションVacation)を組み合わせた造語で、リモートシステム等を活用して観光地など休暇先で仕事をするスタイル。

コロナ禍でなるべく密にならず、また公共交通機関のアクセスが悪い場所へもフットワークが軽くなる上、何より同時進行で仕事もはかどる?試みが、とても興味深いですね。

上杉景虎の生涯を振り返る

ところで今回気になったのは、イベントもさりながら「上杉景虎って、美男子だったっけ?」という素朴な疑問

北条氏康。Wikipediaより。

上杉景虎(うえすぎ かげとら)は戦国時代の天文23年(1554年)、相模国(現:神奈川県)の大名・北条氏康(ほうじょう うじやす)の七男として誕生しました。

幼名は竹王丸(たけおうまる。西堂丸とも)、幼いころから寺に預けられていましたが、16歳になった永禄12年(1569年)に元服、大叔父(祖父の弟)である北条幻庵(げんあん)の娘を娶って北条三郎(さぶろう)と改名します。

明けて永禄13年(1570年)、北条家が越後国(現:新潟県)の上杉謙信(うえすぎ けんしん)と同盟(越相同盟)を結ぶと、三郎はその人質に出され、謙信の養子(姪婿)となって上杉景虎と再び改名。

上杉謙信。Wikipediaより。

景虎とはかつて謙信が元服した際の初名であり、生涯にわたり(恐らく宗教的な理由で)妻を娶らず、子を生さなかった謙信が自身の後継者として多大な期待を寄せていたであろうことが分かります。

(調べてみると、あの男好き?な謙信が見込んだのであれば、美少年でなかった筈がない、などとする俗説もあるようですが、もう少し確かな根拠が欲しいところです)

しかし、謙信には既に上杉景勝(かげかつ)という養子がおり、天正6年(1578年)に謙信が没すると、戦国乱世の習いとばかりに景虎と景勝による後継者争いが勃発。

上杉景勝。Wikipediaより。

上杉家を両断して繰り広げられた「御館(おたて)の乱」に敗れた景虎は生家の北条家を頼って落ち延びるも叶わず、天正7年(1579年)3月24日、自刃して26歳の命を散らしたのでした。

謙信も生前から「どっちが後継者で、もう片方はしっかり補佐せよ(※)」などハッキリ指示しておけば、こんな悲劇は起こらなかったかも知れないに……それとも、景虎も景勝も「どっちも優秀(かつ美男子?)で選べない!」と迷っていたのでしょうか。

(※)一説には、景虎を関東管領、景勝を越後国の守護を譲るつもりでいたとも言われています。

美男子すぎる三郎との別れを惜しんだ、甲斐国の流行り唄

以上、上杉景虎の生涯を振り返ってみたものの、彼が美少年であったと明確に示す根拠は見当たりません。

やはり「謙信のお気に入りだったから、美少年だったに違いない」程度の俗説に過ぎないのでしょうか……と思ったら、根拠と呼ぶにはちょっとアレながら、『関八州古戦録(※)』に、こんな記録がありました。

(※)かんはっしゅうこせんろく:天文15年(1546年)の川越夜戦から天正18年(1590年)の北条家滅亡まで、関東地方における大小の合戦に言及した、江戸時代の軍記物語。誇張や創作も多いものの、他の史料に裏づけられた良質な記述も見られる。

武田信玄。Wikipediaより。

北条家が甲斐国(現:山梨県)の武田信玄(たけだ しんげん)と同盟(甲相同盟)を結ぶ際に、三郎が武田家へ人質(こちらも表向きは養子)に出されており、武田三郎と名乗っていた時のこと。

三郎があまりにも美少年だったので、巷ではこんな唄が流行ったそうです。

♪武田の三郎殿と 一夜契らば 梨地鞍(なしじくら)
召さぬは泣いて御座べいな 辛労(しんろう)で有(あり)もすべい……♪

梨地とは漆を塗った上から金粉などをまぶして梨皮のようにザラザラとした質感に仕上げた鞍を言いますが、この解釈については諸説あるようです。

イメージ

梨地鞍を仮名で書くと「なししくら」、これは汝(な)+肉(しし)+倉(くら)すなわち「あなたと肉体を重ねる(※)」とも読めます。
(※)倉は胸倉(むなぐら)のように着物の襟が「重なる」部分を意味します。

すると、意訳としては
「武田の三郎殿と一夜の契りを交わしたのに、もう重ねて召されぬ(二度と会えなくなる)とは、さぞやお悲しいでしょうな。どこで他の者と契らぬかと気が気でないでしょうな……」
とでも言ったところでしょうか。

ちなみに、甲相同盟は武田信玄が裏切ったことによって破綻してしまい、三郎は北条家へ出戻るのですが、甲斐国に残された者たちが三郎との別れを嘆き悲しむ様子を唄ったのでしょう。

終わりに

……しかし、この「三郎が武田家の人質になっていた説」を書いているのは『関八州古戦録』だけで他の史料には記録がないため、恐らくこれも創作と考えられます。

短くも全力で生きた姿は、間違いなくカッコよかったはず(イメージ)。

とは言うものの、わざわざ「別にイケメンでもなかった」と水を差したところで誰が幸せになれるでもありませんし、不当に貶めているのでなければ、こうした通俗的なイメージも含めて愛してこそ、歴史物語は楽しめるというもの。

死後もゆかりある地域の活性化に役立ち、またみんなが想いを寄せてくれるよい機会に、景虎たちも少しは慰められることでしょう。

※参考文献:
朝倉直美ら編『北条氏康の子供たち』宮帯出版社、2015年12月
槙島昭武『関東古戦録』あかぎ出版、2002年5月
黒田基樹『関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実』角川ソフィア文庫、2017年7月

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角田晶生(つのだ あきお)

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コメント

  1. アバター
    • 名無しさん
    • 2021年 5月 26日

    謙信は死の前に景虎と景勝の姉・清円院との間に生まれた道満丸を上杉家の後継者とし、成人となるまで景勝にその後見役とするという遺言を景虎・景勝・清円院に話していたという説が有力である。
    ただ、重臣たちにはっきりとそれを言ってなかったというのが謙信最大の失敗だ。

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