神話、伝説

世界の伝承に見る「眠りの神・悪魔・精霊」ゾロアスター教から日本まで

画像 : 寝る子は育つ pixabay cc0

睡眠は人間に不可欠な生理的欲求のひとつである。

十分な眠りを欠けば肉体も精神も休まらず、やがて疲労は重大な過失や疾患の原因となる。

成人には通常7~9時間の睡眠が必要とされるが、日本人の平均睡眠時間は世界的に見ても短く、慢性的な寝不足が社会問題とされている。

こうした「眠り」は、神話や幻想の世界においてもしばしば主題とされてきた。

人間の眠りを妨げる妖怪じみた存在から、逆に安眠をもたらす慈しみ深い精霊まで、その姿は多彩である。

今回は、各地に伝わる「眠り」にまつわる怪異伝承を紹介していく。

中東・コーカサス地方における伝承

画像 : ペルセポリスにのこされたゾロアスター教の守護霊フラワシ像 Napishtim CC BY-SA 3.0

古代ペルシャ(現在のイラン)は、ゾロアスター教発祥の地として広く知られている。

ゾロアスター教は「善と悪の永遠の闘争」を説く宗教であり、後世の神話体系にも大きな影響を与えた。
そこに登場する悪魔たちは「ダエーワ」と総称され、あらゆる災厄をもたらす存在として恐れられた。

その中でも人間の眠りを支配する存在が、ブーシュヤンスター(Bushyasta)である。

画像 : ブーシュヤンスター 草の実堂作成(AI)

聖典『アヴェスター』によれば、彼女は黄緑色の痩せ細った身体と異様に長い腕を持つ女悪魔で、夜明けの頃に人間の枕元へ現れ「眠り続けよ」と囁く。

すると人はさらに深い眠りに落ち、目覚めることができなくなるのだという。

一見すれば心地よい安眠をもたらす守護者のようにも映るが、夜明けは人々が活動を始めるべき刻である。
そこで再び眠りに沈められれば、遅刻や怠惰を招くのは必然であった。

ゾロアスター教において早起きは大きな徳目とされていたため、目覚めを妨げるブーシュヤンスターは、人間を怠惰へと堕落させる悪魔として憎まれたのである。

一方、隣国アルメニアにも、眠りにまつわる怪異が伝わる。

イラン学者ジェームズ・ロバート・ラッセルの著作『Zoroastrianism in Armenia』によれば、ムラプ(Mrapʻ)と呼ばれる悪魔が人間を眠りへと誘う存在として恐れられた。

古代アルメニアでは「眠ること」自体が忌むべき行為と考えられていたとされ、その象徴であるムラプは人々にとって不倶戴天の敵とみなされたのである。

さらに同書には、悪夢を見せる「クピリク(Xpil(i)k)」や、眠る人間の首を締め上げる「ガボス(Gabos)」など、睡眠にまつわる悪霊の存在が多数記録されている。

日本における伝承

画像 : 寝肥 『絵本百物語』より public domain

天保十二年(1841)に刊行された怪談集『絵本百物語』には、寝肥(ねぶとり)と呼ばれる奇病の記録が見える。

それは女性に特有の病とされ、ただ眠っているだけで身体が異常に肥え、やがては百貫を超える巨体へと変貌してしまうという。

寝肥に罹った女は稲妻のごとき轟音のイビキをかき、かつての女性的魅力をすべて失い、やがては男から顧みられなくなると描かれている。

この「寝肥」は、単なる怪異譚というよりも、嫁いだ後に家事を怠り、寝てばかりいる怠惰な妻を風刺した寓話であったとも考えられる。

江戸後期の社会風俗を映し出した、民間的な教訓譚の一端といえるだろう。

ギリシャ神話の眠りの神

画像 : ヒュプノス public domain

ギリシャ神話は、世界で最も広く知られる神話体系のひとつである。

その物語群には、睡眠を司る神々や怪異の伝承も数多く残されている。

眠りそのものを擬人化した神として名高いのが、ヒュプノス(Hypnos)である。

彼は冥界にある館に住み、兄である死神タナトス(Thanatos)と共に暮らしているとされる。

タナトスが「絶対の死」を象徴する恐怖の神であるのに対し、弟ヒュプノスは安らぎをもたらす存在であり、人々に優しい眠りを授ける神として敬われた。

その力は極めて強大で、いかなる者であっても瞬時に眠りへと誘うことができたという。
主神ゼウスすら彼の眠りの力に抗うことはできず、深い眠気に屈してしまったと伝えられている。

また、睡眠と並んで語られるのが「夢」である。

夢を司る神はオネイロス(Oneiros)と呼ばれ、数多くの精霊的存在がその名の下に従っていた。
中でも著名なのが三柱「モルペウス、イケロス、パンタソス」である。

画像 : モルペウス public domain

モルペウスは「人の姿を伴う夢」を見せる神で、自在にあらゆる人物へと姿を変えることができた。

彼は黒檀の寝台に横たわり、ケシの花に囲まれて眠るとされ、その名は麻薬モルヒネの語源となった。

イケロスは「動物が現れる夢」を与えるが、それは可愛らしい幻想ではなく、しばしばおぞましい悪夢であったという。

パンタソスは「無機物や抽象的な夢」をもたらし、現実離れした幻影を人の脳裏に映し出したと伝えられている。

おわりに

古今東西の伝承に登場する「眠りの怪異」は、眠りが単なる生理現象ではなく、人々にとって神秘的で不可思議なものと感じられてきた証ともいえるだろう。
睡眠は肉体を癒すと同時に、魂を異界へと導く門でもあった。

だからこそ、その奥には悪魔や精霊、あるいは神々の姿が映し出され、物語として語り継がれてきたのである。

私たちが今も夢や眠りに不思議な魅力を感じるのは、そうした古代からの感覚を無意識に受け継いでいるからかもしれない。

参考 :『アヴェスター』『Zoroastrianism in Armenia』『絵本百物語』他
文 / 草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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