
画像 : 『マニ教宇宙図』マニ教における宇宙を描いたもの public domain
世界でも有数の信者数を抱える宗教といえば、キリスト教・イスラム教・仏教の三つであり、しばしば「世界三大宗教」と総称される。
しかし歴史を振り返れば、これらに匹敵するほどの規模と影響力を持ちながら、やがて姿を消していった宗教も存在した。
その一例が「ゾロアスター教」である。
古代ペルシャを中心に広がり、サーサーン朝の国教ともなったこの宗教は、7世紀のイスラム興隆以前まではユーラシア規模で大きな影響を及ぼしていた。
そして、このゾロアスター教をはじめ、複数の宗教思想を取り込みながら3世紀頃に誕生したのが「マニ教」である。
マニ教は独自の二元論的世界観を打ち出し、西はローマ帝国から東は中国にまで広がった、かつての世界宗教のひとつであった。
今回は、その盛衰の歴史をたどり、かつて栄華を誇ったマニ教について紹介したい。
創始者マニについて

画像 : マニ public domain
マニ教の創始者・マニ(Mani)は、216年にバビロニア(現在のイラク南部)で生まれたと伝えられる。
出生地については諸説あるが、伝承では「マルディヌ村」に由来するとされる。
幼少期のマニは、ユダヤ・キリスト教系の一派である「エルカサイ教団」に所属していた。
この教団はグノーシス主義の影響を強く受けており、当時の正統派からは異端視されていた集団である。
マニはそこで多くの宗教文献に親しみ、とくに聖書外典や啓示文書を熱心に学んだとされる。
※グノーシス主義とは、この世界は不完全な存在(偽りの神)によって造られたとみなし、人は「知(グノーシス)」を得て真の光の世界へ帰還すべきだとする思想。
※外典とは、聖書正典には含まれないが、信仰や思想に影響を与えた文献群。
24歳頃、マニは天啓を受け、自ら独自の宗教を説き始める決意を固めたという。
やがて教団と対立して追放され、少数の仲間とともにインドに渡航した。そこで仏教やヒンドゥー教の思想にも触れたと考えられている。

画像 : サーサーン朝ペルシア帝国の皇帝 シャープール1世 public domain
帰郷後、マニはサーサーン朝の皇帝シャープール1世(在位240~272年頃)に謁見した。
皇帝は当初マニを保護し、布教を黙認したため、マニは弟子を西方のローマ領北アフリカや、東方の中央アジア・中国へ派遣し、その教えは広範囲に拡大していった。
しかし、272年にシャープール1世が没すると、状況は一変する。
後継のバハラーム1世(在位273–276)はゾロアスター教を重んじ、マニを異端とみなした。

画像 : バハラーム1世に謁見するマニだが、ほどなくして逮捕されてしまう public domain
マニは投獄され、277年に処刑もしくは獄死したと伝えられる。
享年は60前後。
マニ教の特徴
マニの教え、すなわち「マニ教」は、しばしばゾロアスター教を母体としつつ発展した宗教と位置づけられる。
ゾロアスター教が善と悪の二元論を説いたのに対し、マニはその思想をさらに拡張し、光と闇、精神と物質といった宇宙的な二元対立の構図を打ち出した。
そこにユダヤ教やキリスト教、グノーシス主義の要素、さらにはインドで接触した仏教の思想をも取り入れ、いわば「良いとこ取り」の教義体系を築いたのである。

画像 : マニ教宇宙図に描かれた各宗教の開祖たち。左からマニ、ザラシュトラ、ブッダ、キリスト public domain
マニ教の特徴のひとつに「禁欲主義」がある。
物質世界は闇に属するものであり、人間の肉体もまた穢れを帯びていると考えられた。
したがって、生殖行為は闇を再生産するものとして否定され、特に修行者階層には厳しい禁欲が課された。
ただし、一般信徒には必ずしも同水準の禁欲は要求されず、現実的な運用がなされていた。
また、マニ教では自殺も禁じられていた。
肉体は闇であっても、その内に宿る魂は光に属するとされたため、みずから命を絶つことは光を傷つける行為とみなされたのである。
こうした思想は、信徒が禁欲と節制を守りつつ、魂を「光の国」へ解放することを目的としていた。
ローマ・中東のマニ教

画像 : マニ教の広がり wiki c Aldan-2,Giorgi Balakhadze
マニは非業の死を遂げたが、弟子たちの活躍もあり、マニの教えはバビロニアを越え世界中へと広まっていった。
ローマ帝国でもマニ教は一定の信徒を獲得し、エジプトや北アフリカ(カルタゴを含む)で信仰が確認されている。
だが3世紀末、皇帝ディオクレティアヌス(在位284~305年)は、帝国の秩序を守るために古来の神々や皇帝崇拝を重んじ、これに従わない宗教を危険視した。
297年にはマニ教徒を「ペルシアのスパイ」と断じて迫害し、経典の焼却を命じた。
さらに303年からは、キリスト教徒に対する大規模な弾圧、いわゆる「最後の大迫害」を開始している。
こうした度重なる弾圧のなかで、ローマ世界におけるマニ教は衰退し、6世紀頃にはすっかり姿を消してしまったという。
中東地域においても、マニ教は一定の広がりを見せた。
7世紀にイスラム教が興隆した当初は、マニ教徒は「啓典の民」として一時的に共存を許されていたと考えられる。
しかし、750年に成立したアッバース朝は宗教的正統性を強調し、異端とみなしたマニ教に対する厳しい弾圧を行った。
マニ教徒は「ズィンディーク(異端者)」とされ、多くが処刑された結果、10世紀頃までには中東からほぼ姿を消したとみられる。
アジアのマニ教
一方、アジアに伝わったマニ教は、比較的長い存続を見せた。
とりわけ8世紀後半、回鶻(ウイグル帝国)では国教として採用され、宮廷を中心に繁栄した。
9世紀に回鶻が黠戛斯(古代キルギス人)によって滅亡したのちも、各地に離散したウイグル人の共同体で信仰が維持された。
しかし14世紀、中央アジアにイスラム王朝ティムール朝が成立すると、マニ教徒は改宗を迫られ、信仰は急速に衰退した。

画像 : 福建省の草庵摩尼教寺にあるマニ像 wiki c Zhangzhugang
中国では「明教」と呼ばれ、唐代から宋・元代にかけて断続的に活動した。
9世紀の会昌の廃仏では仏教とともに弾圧されつつも、各地に地下的に存続した。
やがて仏教や道教との習合が進み、原初の教義は変容していったが、福建省などには拝礼の痕跡が残り、晋江の草庵摩尼教寺は現存する唯一のマニ教寺院とされる。
2010年代には、福建の村落でマニ教指導者・林瞪(りんとう)を追慕する儀礼が確認されるなど、その伝統は細々と継承されている。
かつてユーラシア規模で勢力を誇ったマニ教は、やがて時代の変化の中で衰退した。
しかし、その教えと信仰の断片は失われず、地域の習俗や宗教文化の中に今も息づいているのである。
参考 :
『Manichaeism in the Later Roman Empire and Medieval China(Samuel Lieu)』
『フィフリスト』『ケルンのマニ写本』『マニ教宇宙図』
文 / 草の実堂編集部
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