西太后に嫌われ、24歳で井戸に投げ込まれた「悲劇の才女・珍妃」

清朝末期の動乱と西太后の専権

19世紀末、中国の清朝は列強の圧力にさらされ、かつての強大な国力を失いつつあった。

アヘン戦争やアロー戦争を経て、外国勢力は次々と中国の港や利権を切り取っていった。

こうした衰退の只中にあったのが、清の第11代皇帝・光緒帝(こうしょてい)の時代である。

光緒帝は1875年に3歳で即位したが、実権は伯母にあたる西太后が握っていた。

画像 : 西太后(慈禧太后)晩年の真影 public domain

西太后は、前の皇帝である同治帝が若くして亡くなったあと、幼い光緒帝を後継に立て、自らが後見人として実権を握った。

宮廷では御簾(みす)の奥に座り、皇帝に代わって政務を決裁する「垂簾聴政(すいれんちょうせい)」という形式がとられた。
これは名目上は皇帝が政務を行う姿を保ちつつ、実際には太后が国の方針を決めるやり方であり、西太后はこの仕組みを用いて清朝の政治を思うままに操ったのである。

光緒帝が成長した後も、彼女の影響力は揺るがなかった。

彼女は自らの権力基盤を守ることを第一とし、皇帝の独自性を強める動きを厳しく警戒した。
光緒帝が近代化と政治改革を打ち出すようになると、西太后は危機感を募らせ、その背後にいた側近や妃嬪にまで疑いの目を向けるようになった。

後に悲劇の妃となる珍妃(ちんひ)が生きたのは、こうした緊張した時代であった。

列強の圧迫と国内の改革のせめぎ合い、その板挟みの中で皇帝の最愛の妃となり、やがて権力闘争に巻き込まれていくのである。

光緒帝に最も愛された才色兼備の「珍妃」の素顔

画像 : 珍妃イメージ 草の実堂作成(AI)

珍妃は、満洲八旗の名門・他他拉氏(タタラし)の出身で、1876年に生まれた。

父は戸部右侍郎の長叙、母は侍妾の趙氏であった。
姉の瑾妃(きんひ)とともに、1889年の「選秀女」と呼ばれる宮廷の后妃選抜に参加し、姉は瑾嬪、妹の珍妃は珍嬪に任じられた。わずか13歳の時である。

宮中に入った珍妃は、ただ美しいだけではなかった。
書や絵を得意とし、囲碁にも通じ、さらには洋風の文化にも関心を示した。

当時、写真機は中国でまだ新しいものであったが、珍妃はこれをいち早く手に入れ、宮中に導入したと伝わる。

宮中でカメラを持ち込むこと自体が極めて異例であり、彼女の新しいものを恐れぬ気性がうかがえる。

画像 : 光緒帝の肖像(清の第11代皇帝、在位1875~1908年)public domain

こうした彼女の個性は、光緒帝の心を強く惹きつけた。

帝はもともと西太后の強い支配のもとで自由を奪われがちであったが、珍妃と過ごす時間の中で安らぎを見いだしたとされる。

珍妃は帝の身近にあって日常を共にし、ときには政治の在り方についても意見を述べ、改革への意欲を後押しした。

一方で、性格が穏やかで控えめだった姉の瑾妃とは対照的に、珍妃は活発で物怖じせず、時に言葉にとげを含むこともあった。

だが光緒帝にとっては、他の誰よりも自分を理解してくれる存在であり、最も寵愛した后妃であった。

若くして才色を兼ね備え、時代の新しい風を取り入れようとした珍妃。

彼女の存在は、閉塞した宮廷においてひときわ異彩を放っていたのである。

西太后との確執と幽閉生活

画像 : 西太后(慈禧太后、1835~1908年)1902年撮影 Public domain

入内当初、珍妃はその書の腕前や機知を西太后にも気に入られ、しばしば代筆を任されるほどであった。

しかし、光緒帝からの寵愛が際立つにつれて、次第に西太后から疎まれるようになっていった。

珍妃は光緒帝とともに新しい国づくりを夢見ており、帝の改革への意欲を支えていた。
しかし、西太后にとってはこれは危険な兆しであった。皇帝の意思が強まり、自身の支配が揺らぐことを恐れたからである。

やがて珍妃の行動は「宮廷規範を乱すもの」として糾弾されるようになる。

光緒20年(1894年)、珍妃が懐妊3ヶ月だったとき、西太后は彼女に廷杖の刑(裸での棒打ち)を科した。
めった打ちにされた珍妃は流産し、以後は婦人科の病に悩まされることとなる。

この事件に連座し、珍妃に仕えていた宦官や女官たち、数十名までもが処刑され、彼女の周囲は徹底的に粛清された。

さらに、珍妃の兄が官職売買に関わったとされる事件が発覚すると、西太后は珍妃の宮殿を徹底的に調べ、帳簿を押収。これを口実に珍妃は一時、身分を「貴人」に降格される屈辱を受けた。

決定的な転機となったのは、1898年の「戊戌(ぼじゅつ)の政変」である。

画像 : 康 有為(こうゆうい 1858年3月19日 – 1927年3月31日)清末民初の思想家・政治家・書家 public domain

光緒帝は、康有為(こうゆうい)や梁啓超(りょうけいちょう)といった改革派の学者を登用し、教育制度や官僚制、軍備、産業に至るまで大規模な改革を宣言した。(戊戌の変法)

その構想は、日本の明治維新にも比せられる「立憲君主制を志向した近代化改革」であり、皇帝の権威を保ちながらも清朝を近代国家へと転換させようとする試みであった。

珍妃も帝を励まし、背後から支えたとされる。

しかし、この急進的な改革は保守派の強い反発を招き、西太后はクーデターを断行した。

こうして光緒帝は北京の離宮、瀛台(えいだい)に幽閉され、改革派の要人たちは次々と粛清されてしまった。
この改革はわずか103日間しか続かなかったため、「百日維新」とも呼ばれている。

珍妃もまた連座し、冷宮の一つとされた「北三所」と呼ばれる一室に閉じ込められた。
※冷宮(らんごん)とは、皇帝の寵愛を失った妃嬪を幽閉するためにあてられた区画の総称で、紫禁城内の空き殿舎や一室が、その都度「冷宮」として使われた。

かつて改革を語り、光緒帝と未来を夢見た才女は、暗い冷宮の中で孤独に日々を過ごすことを強いられたのである。

「義和団の乱」勃発

画像 : 義和団の兵士たち public domain

1900年夏、北京の都は戦火に包まれていた。

当時、中国各地では外国勢力の横暴やキリスト教布教への反発から、民衆が「義和団」と呼ばれる集団を結成し、排外運動を繰り広げていた。

やがてこの蜂起は「義和団の乱」と呼ばれ、勢いを増して北京にまで押し寄せたのである。

西太后はこれを利用できると考え、一時は義和団に肩入れして列強に宣戦を布告した。
だが義和団は統制を欠き、暴徒化。

怒った列強は、八カ国連合軍を編成して進軍し、北京城下へと迫ったのである。

画像 : 八カ国連合軍の兵士。左からイギリス、アメリカ、ロシア、イギリス領インド、ドイツ、フランス、オーストリア、イタリア、日本 public domain

形勢不利と見た西太后は、やむなく光緒帝を伴って西安への逃亡を決断した。

その出立を前に、長年疎ましく思ってきた珍妃の処遇が問題となった。

そして西太后は、ついに処刑を命じたのである。

名目としては「幽閉中に意見を述べて西太后を怒らせたため」という説や、「もし敵に捕らえられ辱められては皇室の面目に関わる」として殉節を理由に処刑が命じられたとも伝わる。

珍妃の最後 井戸に消えた若き命

実行命令を受けたのは、宦官の崔玉貴(さいぎょくき)たちであった。

珍妃は幽閉されていた北三所から呼び出され、夜明け前の静まり返った宮中を連れ出された。

着いた先は、紫禁城の一角にある古井戸の前だった。

井戸の石枠には苔がびっしりと生え、長いあいだ使われていなかったせいで、周囲にはひんやりとした湿気が漂っていたという。

画像 : 古井戸に投げ込まれる珍妃イメージ 草の実堂作成(AI)

珍妃は当時、まだ24歳の若さであった。

珍妃は最期に「一度だけ老仏爺(西太后)に会いたい」と願ったが、その望みは聞き入れられなかったという。

井戸の縁に追い詰められた珍妃は、崔玉貴の手で突き落とされ、さらに石が投げ込まれて命を絶たれたと伝えられる。

宮廷にあって才色兼備と称えられ、光緒帝からも厚く寵愛されていたが、その命は理不尽に断たれたのである。

翌日、井戸は石と土で封じられ、表向きには「珍妃は病没した」との風聞が流された。
幽閉中の光緒帝は、最愛の妃の死をただちに知ることもできなかった。

一年後、清が北京に戻ると、西太后は世論を憚り、珍妃の遺骸を井戸から引き上げさせた。

遺骨は北京西郊の田村に仮葬され、のち1913年、光緒帝の陵墓である崇陵の妃園寝(皇帝の妃を葬る区画)へ改葬された。

死後には「恪順皇貴妃」の諡号が与えられたが、それはあまりにも遅い名誉回復であった。

画像 : 珍妃が投げ込まれた井戸(紫禁城内)Helloleecheng CC BY-SA 3.0

現在、故宮を訪れると「珍妃井」と呼ばれるその井戸が残されている。

ただし井戸は後世に縮小・改修されており、珍妃が落とされた当時の姿そのままではない。

それでも、この場所が若き妃の最期の舞台であったことに変わりはない。

皇帝に寄り添い、改革を後押ししながらも、権力の渦に翻弄されて命を絶たれた珍妃の悲劇は、今なお語り継がれている。

参考 : 『清史稿』王照『方家園雑詠紀事』『清実録 徳宗景皇帝実録』他
文 / 草の実堂編集部

草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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