中国史

【ラストエンペラー】愛新覚羅溥儀について調べてみた

1932年(昭和7年)3月、旧満州、中国東北部に「満州国」が建国された。

国家元首となったのは、清朝最後の皇帝「愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)」である。

溥儀は、滅亡した清朝の復活を夢見て元首となったが、皇帝とは名ばかりで、実権は日本軍が握っていた。わずか13年という年月で地図から消えた満州国、そして、「ラストエンペラー」と呼ばれた溥儀の胸中に迫る。

清朝最後の皇帝

ラストエンペラー
※愛新覚羅溥儀

1908年、北京の紫禁城で清朝第12代皇帝が即位した。

宣統帝(せんとうてい)」、後の愛新覚羅溥儀である。わずか2歳で皇帝に即位した溥儀は、幼くして母親から離され、皇帝としての教育を受けることとなる。しかし、1911年、辛亥革命により250年以上続いた清王朝は滅亡した。皇帝である溥儀も18歳で紫禁城を追われ、北京にある日本公使館に結婚したばかりの妻と共に身を寄せた。

しかし、城外から紫禁城を見る溥儀の胸の中では、清朝復活への情熱は消えていなかったのだ。

そして、1931年(昭和6年)9月18日、満州事変が勃発。日本の関東軍は、中国東北部の街を次々と制圧、この地を中国から切り離し、新国家を建設しようとしていた。このとき、日本軍が国家元首にしようとしていたのが「宣統帝」、すなわち溥儀であった。

満州事変から一ヵ月半後、天津の日本租界で暮らしていた溥儀の元へ、日本軍の将校が訪ねてくる。その用件は、溥儀を満州国の皇帝に迎えたいというものであった。

王道楽土実現のために

皇帝の椅子を約束された溥儀は、それを承諾し、関東軍の特務機関に警護されながら極秘裏に満州へと渡った。

翌1932年には、「王道楽土」をスローガンに満州国が建国される。王道楽土とは、アジア的な理想国家である「楽土」を武力による統治ではなく、東洋の徳による統治「王道」で造るという意味であり、西洋列強の植民地に支配に対する牽制の意味も込められていた。

溥儀は、満州国の国家元首に就任するにあたり、日本軍からある密約を提示された。それは、満州国の実権は日本が握るというものである。3月8日、溥儀はふたたび歴史の表舞台に登場することになった。一年後には満州国の国家元首になるという条件で、執政に就任したのである。


※満洲国執政就任式

溥儀は清朝復活のためには、あらゆるものを利用するつもりで日本軍と手を組むことになったが、この地方の権益を守りたい日本軍としては「満州国の皇帝には必ずしも中国王朝の直系ではなくても構わない」といった証言もあり、両者は互いの狙いを知りつつも同じ方向に走り始めたのだった。

関東軍との駆け引き

中国吉林省(きつりんしょう)、長春(ちょうしゅん)。

ここにはかつて満州国の首都が置かれ、「新京(しんきょう)」と呼ばれていた。今でも街中には満州国時代の建物が残されており、当時の面影を見ることができる。満州国の政治の中心「国務院」は、日本の国会議事堂をモデルに建てられたといわれ、現在では大学の施設となっている。


※満州国国務院

1934年3月、清朝の滅亡から22年を経て、溥儀は皇帝の座に座ることとなった。

即位にあたり、溥儀は歴代の清朝皇帝しか許されなかった黄色い皇帝服を着ることを望んでいたが、日本の関東軍は「満州国陸海軍大元帥正装」という軍服を贈り、「清国ではなく満州国の皇帝として即位するのだから、こちらを着るように」と溥儀に言い渡したのだ。

この段階においてなお、溥儀は周囲に「どうにかして清朝を復活させたい」と話していたという。

13年間の皇位

関東軍は、即位式の当日早朝に人目のつかない郊外で清朝皇帝としての即位式を執り行い、しかる後に大元帥の正装に着替えてから公に即位を宣言することで、溥儀が皇帝服を着ることを認め、即位式が行われた。

翌1935年には初めて日本を訪問し、国民と軍隊がいかに昭和天皇を尊んでいるのかを知り、日本の皇帝に自らの姿を重ねたのである。


※満州国軍大元帥服で皇帝に即位する溥儀

1937年(昭和12年)日中戦争が勃発すると、満州は日本軍の補給基地としてその重要性が高まっていった。

しかし、1945年8月9日未明、満州に突如としてソビエトの大軍が侵攻を開始した。ソ連対日参戦である。この頃、関東軍の主力は南方戦線や内地へと送られており、軍事的に手薄となっていた満州は、圧倒的なソ連軍の前に成す術もなかった。

翌日、関東軍は溥儀に満州国の移転を勧告する。しかし、その勧告を受けた溥儀の周囲からは人々が逃げてしまい、移転は関東軍の力を借りることとなった。溥儀には逃げるという選択肢はなく、あくまで「遷都」という形をとり、皇帝の座を離れることはなかったのである。

満州国の崩壊

8月14日の深夜、皇帝一行の車列が新京から出発した。溥儀は、紫禁城を追われたときと同じように、住み慣れた「祖国」を後にせねばならなくなったのである。迫り来るソ連軍から逃れるように南に逃げた一行は、朝鮮との国境に近い、通化省大栗子(だいりっし)という小さな街に臨時政府の首都を置いた。

しかし、臨時政府を開いてからわずか二日後の1945年8月15日正午、溥儀は昭和天皇の玉音放送により、日本のポツダム宣言受諾を知ることになる。そのとき、溥儀は、襟を正してラジオに聞き入り涙を流したという。

日本の敗戦を受け、満州国政府も国家の解体と皇帝の退位を決定した。8月18日、溥儀が満州国皇帝を退位したとき、満州国も山奥の小さな街で13年の歴史に幕を下ろしたのである。翌日、溥儀はソ連軍に捉われてシベリアへ送られたが、翌1946年(昭和21年)、東京裁判に出廷し、自らも日本の被害者であったことを訴えたのである。

実はシベリアに抑留された際、溥儀はスターリンの像に敬礼をするなど、良くいえば「柔軟」悪くいえば「保身に長けている」ところを見せていた。


※ソ連軍将校と共に東京裁判に向かう溥儀(1946年8月9日)

満州国崩壊から5年後、溥儀の身柄は中国に引き渡され、一般市民として生きるための思想改造が行われた。

これにより、溥儀は皇帝時代の罪を認め、恩赦により釈放されると一人の中国国民として生き、1967年に死去。享年61であった。

ラストエンペラー

溥儀という人物の柱は「清朝復活」という夢であった。

そのためには利用されていると知りつつも日本軍と手を組み、心まで日本人に近付こうとした。満州国の神社に天照大神を祀り、御神体の鏡を大切にしていたという。しかし、その一方で敗戦後はソ連に従順な姿勢を見せ、中国では社会主義思想に染まりその人生を終えた。

日和見主義のようにも思えるが、そこまでの柔軟さがなくては生きていくことが難しかった時代であり、溥儀にとっては、例えどのように見られようとも「生き残る」ことで清朝復活への夢をつないでいたのかもしれない。

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