NHK「ばけばけ」で、北川景子さん演じる雨清水タエのモデル・小泉チエは、格式ある松江藩の家老の娘として、誇り高い生き方を貫いた女性です。
松江随一の名家の一人娘として生まれ、何不自由なく育った彼女は、明治の激動期に夫の事業失敗によって没落。
家を失い、ついにはホームレスになるという壮絶な人生を歩みました。
今回は、小泉チエの生い立ちから没落までの人生と、彼女の人となりに迫ってみたいと思います。
禄高1400石、召使いは30人、名家のお姫様だったチエ

画像 : イメージ 水野年方「三十六佳撰 琴しらべ」public domain
天保8年(1837)、小泉チエは、松江藩に仕える家老・塩見増右衛門の長女として生まれました。
チエの父親は、世間から「やんちゃ殿様」と呼ばれていた藩主・松平斉貴の放蕩ぶりを、自らの死をもって諫めたことで有名な人物です。
また、武家屋敷が軒を連ねる松江市の「塩見縄手」は、四代目・塩見小兵衛の屋敷がこの通りにあったことに由来しているそうです。
このような格式ある武家の娘として、チエは2000坪の広大な屋敷に住まい、30人近い使用人に囲まれ、何不自由のない生活を送っていました。
幼い頃から茶道や三味線、謡曲などの教養を身につけ、「御家中一の器量よし」と称されるほどの美貌と品格を備えていたといいます。
そしてなによりも武家の娘という誇りは、彼女の人生を通して揺るがぬ信念となっていました。
12歳のとき、チエは塩見家と同格の武家に嫁ぎます。
しかし、この結婚はとても悲惨なものでした。
婚礼の夜、彼女の夫は自宅の庭で愛妾と心中をはかったのです。
血の匂いの漂う庭で、首を斬り落とされた愛妾とともに、夫は腹をかき切って果てていました。
その後、時を置かずに実家に戻されたチエのもとには、ひっきりなしに縁談が舞い込みました。
というのも、夫の無残な姿を目にしても一切取り乱すことのなかった彼女の堂々とした振舞いが、評判となっていたのです。
14歳の秋、チエは小泉家へと嫁ぎました。
子どもを産んでも産みっぱなし、武家の奥方の生活とは

画像 : イメージ.水野年方 「三井好 都のにしき 乳母か家」public domain
小泉家の家禄は300石。
代々、番頭(ばんがしら)という重要な役職を務めてきた由緒ある家柄で、塩見家ほど家格は高くありませんが、武士の中でも上位に位置する「上士」にあたります。
上士の奥方となったチエは、どのような生活を送っていたのでしょう?
まず上級武士の奥方は、掃除や食事の支度といった奥向きのことは一切しません。
家事や雑事は女中の仕事であり、子どもの世話は乳母たちの役割でした。

画像 : 徳川宗敬 public domain
時代は下りますが、徳川宗敬伯爵の妻、旧鳥取藩主池田家の長女・徳川幹子氏(とくがわ もとこ)は、著書「絹の日、土の日」で、若奥様の毎日は退屈だったと記しています。
風呂では奥女中が体を洗ってくれるし、お化粧も着替えも食事も3時のおやつも言われるまま。
絹の座布団に人形のようにおとなしく座っていれば、なにからなにまで女中が世話を焼いてくれるのです。
子どもも産んだら産みっぱなし。オムツを洗ったこともなければ、赤ちゃんを抱いたこともなかったそうです。
だからといって、子どもを可愛がっていないというわけではなく、代々そういう習慣だったといいます。
チエは、湊との間に11人の子どもを産みました。
そのうち5人は夭折してしまい、養子に行ったセツを含む6人(4男2女)が無事成人しています。
変装して三味線バトルに興じるチエ

画像 : イメージ 小林清親 「浅草夜見世」public domain
武士の娘のたしなみとして、学問や芸事に通じていたチエの特技は三味線で、その腕前はプロ顔負けだったそうです。
ある時、こんなことがありました。
明治15、6年頃から松江では「天長祭り」が行われており、夜12時の鐘の音を合図に祭りが始まると、人々は夜を徹して繁華街で騒ぎ続けるのが常でした。
天長祭りの夜、チエは夫に内緒でそっと家を抜け出し、街へと向かいます。
御高祖頭巾(おこそずきん)で変装し、片手には三味線。
お供には手拭いで頬かむりをした長男の氏太郎を連れて行きました。
チエは、三味線を持った人たちと道で出会うと、即興で腕比べにいどみます。
チエの三味線の腕前は玄人(くろうと)も驚くほどで、正体不明の紫頭巾の女は、またたく間に評判になりました。
2年間はなんとか正体を隠し通したものの、3年目に誰かに尾行され「紫頭巾は小泉家の奥方だ」と噂になってしまいます。
噂はあっという間に広がり、夫の耳に入るやいなや、こっぴどく叱られたチエと氏太郎。
以来、三味線は蔵の奥にしまわれてしまい、夫の許しがない限り弾けなくなってしまったそうです。
チエの三味線はプロ級でしたが、ほとんど唄うことはなかったそうです。
来客が酒の席で「奥方の三味線を聞きたい」と言っても、夫の湊は「コレは空き家の便所同様で」と答えたそうです。「声」と「肥」をかけたシャレです。
また、唄だけでなく、普段から小さな声で話す人でした。
チエの孫・小泉一雄氏はこのコソコソ話が大嫌いだったそうで、著書で次のように述懐しています。
(略)貴品の高い容姿のお祖母様でした。しかしどことなく冷たい感じのする無表情な人で、いつも蚊の鳴くような小さい声でヒソヒソと話をする人でした。養祖母の慈明院様(セツの養母トミ)とは正反対の性格の女性でした。
小泉節子, 小泉一雄著『小泉八雲』,恒文社,1976. 国立国会図書館デジタルコレクションより
物乞いとなったチエ

画像 : 軍装品イメージ public domain
湊が立ち上げた機織会社は、時代の変化に翻弄され倒産。
家も頼れる人も失ったチエは、生活の苦しさに直面します。
しかし、50にかかろうとしているチエに、仕事の口はありません。
そもそも、「働くことは卑しいこと」と教えられて育ち、家事さえもしたことのない彼女が働けるはずもなかったのです。
幼いころから、武家の娘として、大事が生じた時には困難や死さえも恐れずに、勇敢に立ち向かえるように厳しく育てられました。
わずか12歳で、夫の凄惨な死を目の当たりにしても一切動じず、冷静に事に当たれたのもそのおかげだったのでしょう。
しかし、社会に放り出された彼女は、ひとりで世間に立ち向かわなければなりませんでした。
それは、高い壁のように、彼女の前に立ちはだかっていたのです。
生活の手段を持たない彼女が、社会の中で生きていくことはとても困難でした。
チエは、静かに崩れていく人生を歩むことになります。
初めのうちは家財を売り払い、なんとか糊口をしのいでいましたが、それも早々に尽きてしまうと、彼女に残された選択肢はもう物乞いしかありませんでした。
『山陰新聞』や『西田千太郎日記』には、チエが物乞いとなったことが記されており、当時の人々の記憶にも残るほど衝撃的な出来事だったようです。
没落後も武家の奥方気質が抜けないチエ

画像 : イメージ 山本昇雲 「四季のながめ 春かすみ」public domain
絶望的な状況に陥っても、チエは気高い心を保ち続けました。
小泉八雲夫妻と親交の深かった西田千太郎は、彼女の実家である塩見家の家来筋に当たります。
そんな縁もあって、故郷に錦を飾るほど出世した西田に、チエは救済を依頼したことがありました。
ある時、西田と面会したチエは、
「おうおう、これは千太か、久し振りじゃったのう。えらい立派にならしゃって、平兵衛(西田の父)もさぞかし満足じゃろう。ちと当方へも話しにおじゃい。」
小泉一雄『父小泉八雲』小山書店, 1950. 国立国会図書館デジタルコレクションより
と横柄な口をきき、これには周りにいた人たちも冷汗をかいたそうです。
明治という時代の変革期にうまく適応できたのは、家事や内職を通して技能と勤労の習慣を得ていた下級武士の妻や娘たちでした。
上級士族の奥方から物乞いへと零落したチエは、どこまでも誇り高い武家の娘でした。
彼女もまた、明治という時代の荒波に沈んだ侍の一人だったのかもしれません。
参考文献
小泉節子 小泉一雄著『小泉八雲』,恒文社,1976 国立国会図書館デジタルコレクション
小泉一雄『父小泉八雲』小山書店, 1950 国立国会図書館デジタルコレクション
文 / 深山みどり 校正 / 草の実堂編集部
























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