時は、大正14年(1925)。
まだ16歳のうら若き乙女が「拳銃でイタリア人実業家を撃つ」というセンセーショナルな事件が起こりました。
その少女は、なんと海軍大佐の令嬢。
しかも、当時は最先端をいく断髪洋装の「モダンガール」だったことで、一躍時の人になったのでした。
最先端をいく「モダンガール」と「銃撃」という、まったく結びつかないようなこの事件は、どのようなものだったのでしょうか。

画像:銀座通りを闊歩するモダンガール (1928年撮影)public domain
大正ガールが夢中になって読んでいた雑誌
今から100年前の大正時代。
現在と同様に、少女たちが胸をときめかせて夢中になった雑誌がありました。
たとえば、『少女画報』(1912〜1942)は、女性小説家・吉屋信子による少女小説「花物語」や、芸能関係の記事を多数掲載し、娯楽性が高いことで人気を集めました。

画像:「少女画報」高畠華宵1928年(昭和3年)12月号の表紙 Takabatake Kashō CC0
また、婦人グラフ雑誌『淑女画報』、現在も続いている日本最古の女性誌『婦人画報』なども人気でした。
女学校に通える裕福な家庭の子女たちの写真や、当時の風俗などが掲載された雑誌は、少女たちの夢や憧れが詰まっていたのです。
“令嬢”と呼ばれる人は、ほとんどが実業家や代議士、爵位のある華族などの上流階級の家庭に生まれ、高額な学費の学校で良妻賢母教育を受け、裁縫、ピアノ、琴などの習い事をするのは当たり前でした。
けれども、プロになるのはNGで、あくまでも結婚してから相手やその家族を楽しませるためだったとか。
上流階級の母親と“令嬢”がダンスホールに入り浸り

画像:人形町のユニオンダンスホール。1920年代末 public domain
ところが、そんな憧れの存在だった“令嬢”が、銃撃事件を起こしたのだから世間は大騒ぎ。
当時の新聞の誌面を賑わせました。
事件が起こったのは、大正14年(1925年)9月28日夜。
海軍大佐の令嬢であった深谷愛子(16歳)は、父と別居していた母親とともに、当時流行していた銀座のダンスホールへ頻繁に出入りしていました。
なぜ、まだ十代半ばの少女が母親と連れ立って夜の社交場に通っていたのか、詳しいことはわかりません。
伝えられるところによると、愛子の母親は「ダンスや西洋のマナーを教える」と称して、ホテルやバー、ダンスホールなどに出入りし、外国人客と親しく交際していたといいます。
当時の一部報道は「母娘が外国人相手に遊興的な交際をしていた」あるいは「売春に関与していた可能性がある」と伝えましたが、確証を示す記録は残っていません。
そんなとき、母娘が出会ったのがイタリア人の商人・実業家のウンベルト・リッチでした。
実業家とはいっても、実は「酒の密輸入をしていた」「売春の斡旋をしていた」という話もあります。
「ダイヤの指輪」欲さにイタリア人を銃で撃つ

画像 : ダイヤの指輪 イメージ
9月28日夜、銀座のイタリア大使館で、母娘とリッチの間に口論が起きました。
次第に激しい罵り合いとなり、愛子は持っていたピストルを取り出してリッチに向け、引き金を引いたのです。
幸い、リッチは命を落とすことはなく、重傷を負いながらも一命はとりとめました。
事件の動機については諸説あります。
ひとつは、母娘がリッチと関係を結んで金銭を騙し取ろうとしたところ、口論となって撃ったという説。
もうひとつは、母親のものだった高価なダイヤモンドの指輪をリッチに預けていたのに、返してくれずに撃った、という説です。
ただし、16歳の少女がどのようにしてピストルを手に入れたのかはわかっていません。
父が海軍将校であったことから、愛子が父の部屋から拳銃を持ち出したのではないかと推測されますが、証拠はなく、また誰から撃ち方を学んだのかも不明です。
いずれにしても、発砲の現場がイタリア大使館であったこと、加害者が16歳の海軍大佐令嬢であったこと、そして母娘が外国人と交遊していた背景など、当時としては極めて刺激的な要素が重なり、事件はたちまち世間の注目を集めました。

画像:二十六年式拳銃(1890年代初期に開発・採用された大日本帝国陸軍の拳銃)Naval History & Heritage Command CC BY 2.0
断髪洋装の「モダンガール」
さらに、一番注目されたのが、深谷愛子のルックスでした。
彼女はまだ幼さの残る16歳ながら、当時の最先端である断髪に洋装という姿で法廷に現れ、まさしく「モダンガール」を体現していたのです。
当時の社会では、モダンガールに対して「知的教養の浅い大衆女性」「浪費的で打算的」「家庭的でなく自由恋愛を好む」といった批判的な固定観念が強く存在していました。
さらに、関東大震災(1923年)を境に街に出る女性が増え、売春を生業とする女性の多くが派手な洋装をしていたことから、モダンガール像と重ねられるようになりました。
そのため、愛子の断髪洋装姿は「上流階級の娘が堕落の象徴となった」として、報道や世論の格好の材料となったのです。

画像:モガ カフェ「クロネコ」の店員 Mainichi Shimbun public domain
「深谷愛子」事件によって、モダンガールはさらに評判を落とし、世間の偏見を強める結果となりました。
愛子を「嘘つきの典型」と断じる声もあり、雑誌『婦女界』は記事の冒頭で「モダーンガールといへば、世間の人はすぐにリッチ事件の深谷愛子を聯想するでせう」と書き出しています。
当時の報道によれば、愛子は強盗殺人未遂の容疑で市谷刑務所に勾留され、のちに強盗未遂・殺人未遂罪で起訴されました。
母親は頻繁に面会に訪れたものの、父親は一度だけ現れただけだったと伝えられています。
公判で裁判所に現れた愛子は、黒髪の断髪に派手な洋装、濃い化粧、ハイヒールという、まさにモダンガールの装いで登場し、その姿もまた連日の新聞を賑わせました。

画像:イメージ『ほろ酔ひ』小早川清画 (1930年)public domain
中年過ぎに窃盗で再逮捕された愛子
その後、リッチは女性を誘惑してホテルに連れ込むなど、たびたび風紀を乱す騒ぎを起こし、最終的に日本からの国外退去を命じられました。
一方、あの銃撃事件で世間を騒がせた深谷愛子は、昭和29年(1954年)、45歳のときに古物商から小物を盗んだとして窃盗容疑で逮捕されています。
かつて銀座のダンスホールを華やかに歩き、法廷でも断髪洋装のモダンガール姿で世間を驚かせた少女が、数十年後に小さな盗みで再び新聞に名を載せることになるとは、誰が想像したでしょうか。
執行猶予の後、愛子がどのような人生を送り、なぜ再び罪を犯すことになったのかは、記録には残されていません。
当時、自由で強い女性の象徴のように装っていたモダンガールの姿は、実は弱さを覆い隠すための鎧だったのかもしれません。
参考:
明治 大正 昭和 不良少女伝—莫連女と少女ギャング団(河出書房新社)平山亜佐子
戦前エキセントリックウーマン列伝(左右社)平山亜佐子
「モダンガール」再考―雑誌『女性』を通して―吉武英莉
文 / 桃配伝子 校正 / 草の実堂編集部
























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