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【浅草のシンボル十二階】凌雲閣について調べてみた

1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒頃、帝都を未曾有の大災害が襲った。

関東大震災」である。

これによる被害は、2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災以前において、日本災害史上最大級のものであった。地震の発生時刻が昼食の時間帯と重なっていたこと、さらに当日は強風が関東地方に吹き込んでいたたことで、木造住宅が密集していた東京市は、瞬く間に火の海と化した。
一方で石造りやレンガ造りの建造物も多くが崩壊、もしくは大破する。

被災した建造物の中でも代表的なものが浅草にあった「凌雲閣(りょうんかく)」、通称「浅草十二階」である

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望楼建築ブーム

浅草
※浅草公園十二階(凌雲閣)と仁丹看板

1890年(明治23年)11月、浅草に赤レンガ造りの塔が建てられた。高さ52mという当時としては驚くべき高さの建造物である。その塔は「雲を凌ぐほど高い」という意味で「凌雲閣」と命名された。しかし、凌雲閣が12階建てだったことから、一般的には「浅草十二階」と呼ばれるようになる。

凌雲閣が建設された理由には、明治20年代に高所からの眺めを売り物にした望楼建築がブームとなっていたことがある。前年の1889年(明治22年)には、大阪の和風庭園「有楽園」内に9層楼の「凌雲閣」が建設されている。

浅草凌雲閣は、起案者は長岡の豪商であった福原庄七、基本設計者はウィリアム・K・バルトン(バートン)、土木工事監督は伊澤雄司という記録が残っている。しかし、バルトンは明治政府の内務省衛生局のお雇い外国人技師として来日しており、帝都上下水道の基本計画を行ったり、日本の上下水道技師の育成などが主な仕事だった。

つまり、純粋な建築家ではないものの、凌雲閣の基本設計者を任されていた。

日本初の電動式エレベーター


※ウィリアム・K・バルトン

はじめに「凌雲閣株式会社」が設立され、のちに社長として、写真家で東京市会議員であった江崎礼二が就任した。凌雲閣の起草者は福原庄七だが、実際の発案者は江崎とされている。理由として、江崎は若い頃に写真に魅せられ、間借りで写真スタジオを開業したがこれはうまく行かず、1874年(明治6年)に当時盛り場だった浅草奥山に写真館を移転したことで成功している。

さらに、浅草勧業場(百貨店)を開設して産業振興をはかるなど、浅草に対して並々ならぬ思い入れがあったからだ。そのため、凌雲閣は、後述する「浅草六区」の突き当たりに建設された。

。東京における高層建築物の先駆けとして建築され、日本初の電動式エレベーターが設置されたが、その設計にあたったのは当時東京電燈株式会社の技師で東芝の前身の一つとなる白熱舎(のちの東京電気)を創業した藤岡市助と考えられる。このエレベーターこそ、凌雲閣最大の「売り」であった。

いくら十二層という高さを誇ろうが、階段で登るようでは客は寄り付かない。そこで、エレベーターの導入が決定したのだが、設計者のバルトンは設計時はエレベーターの施工は考慮しておらず、施工には反対したと後に親族は語っている。

浅草 のシンボルへ

完成当時は12階建ての建築物は珍しく、モダンで、歓楽街・浅草の顔でもあった。明治・大正期の『浅草六区名所絵はがき』には、しばしば大池越しの凌雲閣が写っていた。

展望室からは東京界隈はもとより、関東近県の山々まで見渡すことができた。当時の入場料は大人8銭、子供4銭。

チケットには、「江湖(こうこ/世間)の諸君、暇のある毎(ごと)にこの高塔の雲の中に一日の快を得給え」と書かれている。ちなみに当時の1銭は時代にとっても異なるが、約100~200円ほどである。8銭だと、800~1000円といったところか。

最上階からの眺めは「十二階の上で見ると、左は伊豆の火山群から富士、丹沢、多摩、甲信、上毛、日光をぐるりと細かに指点することが出来る。第一に目に着くのは富士である。東海の帝王、実際屹然(きつぜん)として群を抜いている」との言葉も残っており、その人気のほどが分かる。

しかし、売りであったはずのエレベーターは故障が多く、翌年には閉鎖されてしまった。設計者であるバルトンの予感が的中したのだ。

浅草六区

※映画館が立ち並ぶ浅草六区の歓楽街、1937年(昭和12年)

1884年(明治17年)、浅草は一区から七区までに区画整理された。この時、浅草寺裏の通称・浅草田圃の一部を掘って池(ひょうたん池)を造り、池の西側と東側を築地して街区を造成。これが第六区となり、浅草寺裏手の通称奥山地区から見せ物小屋等が移転し歓楽街を形成した。

現在で言うところの、浅草寺公園の西、国際通りまでの区画を六区と呼び、明治から戦後まで東京でも随一の歓楽街として賑わっていたのである。そこにそびえたつ凌雲閣は、さぞ道行く人の心を躍らせたのだろう。

しかし、エレベーターの閉鎖によって、明治末期には客足が減り、深刻な経営難に陥った。時には「東京百美人」という東京中の芸者の写真を張り出し、美人コンテストなども行ったが、経営の建て直しはほぼ困難な業況になる。


※崩壊した凌雲閣

1920年頃になると、凌雲閣の周辺一帯も徐々に風紀が乱れ、いかがわしい店ばかり増えた。もはや、瀕死ともいえる凌雲閣に止めを刺したのが1923年9月1日に発生した関東大震災である。

地震により建物の8階部分より上が崩壊。当時、頂上展望台付近には12 ~ 3名の見物人がいたが、1名を除く全員が崩壊に巻き込まれ即死したという。同様に銀座のレンガ街も大きな被害を受けた。それまでの日本の西洋建築は「レンガ造り」が広まっていたためだ。レンガ造りはコストや工期の短縮になったが、関東大震災によりその脆さが露呈する。

一方で、当時は最新技術であった「鉄骨鉄筋コンクリート構造」は、その堅牢さを証明することとなった。

東京、丸の内にあった日本興行銀行本店に採用された「鉄骨鉄筋コンクリート造」の建物は、関東大震災での被害がほとんどなかったといわれているのだ。

凌雲閣は、経営難から復旧が困難であったため、同年9月23日に陸軍工兵隊により爆破解体される。

33年の間、浅草のシンボルだった浅草十二階としては呆気ない最後であった。

最後に

関東大震災では多くの被災者が亡くなった。
東日本大震災、熊本地震も発生し、国民の防災意識も高まってはいるが、このように歴史的な建造物の耐震化なども考えて欲しいものだ。

もちろん、人命優先という前提の話である。

 

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