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なぜ成田空港は建設されたのか? 「火炎瓶で死者が出るほどの反対運動の中で開港 ~三里塚闘争」

仕事の出張や旅行、故郷への帰省と、現代人は空港を使う機会が多い。

かつては飛行機での移動というと高額で、限られた人々しか利用できなかったが、現代では目的地によってはむしろ他の交通機関よりも安価な航空会社の運賃もある。

このように多くの人が利便性を感じる空港であるが、かつて日本では、空港の建設に対する反対運動により、死者が出るほどの騒乱が起こったことがある。

成田国際空港の滑走路はかつて、B滑走路に並行する誘導路が大きく湾曲しており、初めて当時の成田空港の俯瞰図を見れば必ずといってよいほどその不自然さに首を傾げるだろう。これは、成田空港建設の際の反対運動にその由来がある。

なぜこのような激しい反対運動が起こったのか?

この記事では、現役で稼働している「成田国際空港」と、その建設に対して巻き起こった反対運動、「三里塚闘争」について解説しよう。

成田国際空港とは?なぜ建設されたのか?

成田空港はなぜ建設されたのか?

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成田国際空港は、1978年5月20日に開港した国際空港である。

千葉県成田市・山武郡芝山町・香取郡多古町にまたがる敷地を持ち、「NRT」の空港コードによって、今日でも稼働している。
一方、こちらも現役の国際空港である「羽田空港(東京国際空港)」は、首都圏への航空輸送の一大玄関口として知られており、利便性も高い。
また、東京国際空港は1931年の開港であり、成田国際空港よりも歴史が古い。

首都圏への航空アクセスの拠点となる東京国際空港がすでにあるのにも関わらず、成田国際空港が建設されたことには、いくつかの理由がある。

1960年代ごろから、日本では大型ジェット旅客機の増加による滑走路の長大化、ヒト・モノ双方の国際輸送における航空機の重要性の高まりが背景としてあった。
より多くの航空機が発着するようになると、すでに首都圏に存在した東京国際空港だけの処理能力では遠からず限界を迎えることが明らかであった。

当時の東京国際空港を拡張して対応する方法も検討されたが、東京国際空港の沖合側への拡張は港湾計画との兼ね合いや港湾土木技術の制約から難しかった。
さらに、多摩地域にある米軍横田基地による飛行制限空域の存在は、東京国際空港の拡張による対応をさらに難しくしていたのである。

このような中で、「新東京国際空港」の建設が必要とされ、その候補地として千葉県では浦安市沖の埋立地、あるいは富里市・八街市、茨城県の霞ヶ浦沖、神奈川県の金沢八景沖の埋立地がその候補とされたのであった。

最初の火種「三里塚案」と住民の受け止め方

成田空港はなぜ建設されたのか?

画像 : 新空港富里内定を報じる新聞 wiki c

さて、先の解説からも明らかであるように、もともと成田国際空港(当時は「新東京国際空港」と呼称)は、現在空港が存在する成田市・山武郡芝山町・香取郡多古町といったエリアは候補とされていなかった。

いくつかの候補地の中で1965年11月18日、最初に内定となったのは、「富里・八街」であった。
しかし、この内定は住民の強硬な反対運動が発生した。

これを受け、時の佐藤栄作内閣では、建設予定地を成田市三里塚とする旨を翌1966年6月22日に千葉県知事に提案し、2週間後の7月4日には閣議決定を行うというスピード決定を行った。

三里塚案が提案された理由としては、もともと国有地である「宮内庁下総御料牧場」や県有林があったほか、この地は太平洋戦争の終結後に周辺を開拓して農地をつくり生活している、いわゆる「戦後開拓」の農地であったためであった。

成田空港はなぜ建設されたのか?

画像 : 開拓農家の例(1974年度)それぞれの家ごとに四角い区画を有しているのが特徴 wiki c 4th protocol

このような特徴をもつ三里塚の用地が、他地域と比べスムーズに取得できるという考えは、確かに不自然とまでは言い切れなかった。
しかし、問題は住民への説明が不足したことであった。

知事への提案からわずか2週間後の閣議決定というスピード決定は、住民たちからすればまさに「寝耳に水」の話であった。
空港周辺の地域に生活する住民からは騒音への懸念や移転の強制に対する反対の声が上がったほか、戦後開拓民からはさらに激しい反対を受けることとなった。

というのも、「戦後開拓民」は、確かに三里塚で生活をしてきた期間としては短いものの、戦火をくぐりぬけて生き延び、もともと農地でもなかった土地を重機もない中開拓し、ようやく農地として利用ができるようになったという土地だったのである。

また、三里塚周辺で農業を営んでいたのはなにも開拓農民だけではない。

取香や駒井野といった地域は、江戸時代から農業を続けている歴史があり、「古村」と呼ばれていた。

これらの住民にとっては、自分たちの農地のみならず、古くから近くにあり慣れ親しんだ御料牧場がなくなり、空港になるということも、心情的に受け入れがたい話だったのである。

「空港反対同盟」の結成と反対運動の方法

成田空港はなぜ建設されたのか?

画像 : 闘争で新左翼党派や反対同盟員が用いた装備 (成田空港 空と大地の歴史館展示) wiki c 7GIT

現代では大規模施設が建造されるときには、住民側との様々な方法での調整が行われたうえで建設に至ることが理想とされる。
もちろんそれですら反対運動が起こることも珍しくない。

ましてこの時は、三里塚の住民に対しては一度も説明がなく、佐藤首相と千葉県知事との間だけで決定した空港建設事業が突然通告された状態となったわけである。
当然、住民たちは激しく反発した。

農地という自分たちの生活の糧を奪われる懸念だけではなく、航空機、特にジャンボジェット機という巨大構造物が目の前に降りてくるということへの心理的抵抗感のほか、彼らにとっては未だ、「空港の周辺は危険地帯」という認識が根強かった。

現代の日本ではその認識は希薄だが、空港という場所は戦争になった際に優先的に襲撃されるという事実は、現代も当時もさほど変わらない。
太平洋戦争の戦火を生き延びた彼らには、その体験が身にしみていたのである。

こうした住民たちの不安と結びついたのが、当時の革新政党「日本共産党」や「日本社会党」であった。
彼らはすでに、富里案の際に地元住民と協力して富里案を取り下げさせたという実績が体験としてあった。

かくして、成田市・芝山町の反対住民、そして革新政党オルグらが合流し、「三里塚芝山連合空港反対同盟」が結成されるに至ったのである。

反対同盟は、空港建設予定地の土地を一坪ずつ購入して登記したり、立木一本一本を登記することで用地買収を困難にする「一坪運動」を展開したり、デモ・署名、陳情・解職請求などの方法で反対運動を展開していった。

そして政府は反対同盟からの反発を受けて、空港建設のために設立された新東京国際空港公団側から、用地買収に関して買い上げ価格を高く設定するほか、離農農家への廃止補償、代替農地の確保を提示し、住民説明会も開催した。

こうした政府の歩み寄りの姿勢により、およそ8割の地権者は「条件によっては交渉に応じる」とする「条件賛成派」に転向した。

その一方で政府は、用地買収に応じない住民に対しては「土地収用法に基づく行政代執行」をちらつかせるなど、硬軟併せた対応を行ったのである。

運動の過激化と「東峰十字路事件」

成田空港はなぜ建設されたのか?

画像 : 三里塚・芝山連合空港反対同盟のスローガン wiki c あばさー

上記のような補償内容から条件賛成派となった地権者もいたが、反対を続けた住民もいる。

そのような中、空港公団側は建設のための測量や調査を強行した。
この調査に対して反対同盟は座り込み・投石による妨害を行ったが、これらの住民は機動隊に排除されることになった。

こうした機動隊による排除の威力を目の当たりにし、また頼りにしていた革新政党が、機動隊が現れたとたんに現場を離れたことなどから、反対同盟と革新政党との間に決定的な亀裂が生じた。

かわって反対同盟と近づくことになったのが、当時盛んだった学生運動を行う、「全日本学生自治会総連合(三派全学連)」であった。
この三派というのは羽田事件やベトナム戦争反対運動などで度々警察勢力・機動隊との衝突を経験している「中核派」「共産同」「社青同解放派」である。

もとより急進的な思想であるだけでなく、投石や角材を使った反対運動・デモ運動に慣れていた彼らに主導されたうえ、住民が次々と条件賛成派に寝返っていたことで焦りを生じていた反対同盟の運動もまた、過激化の一途を辿っていた。

そして、三里塚闘争の中で最大といってもよい事件、「東峰十字路事件」が発生する。

1971年2月から3月にかけて行われた「第一次代執行」によって、機動隊の実力排除を目の当たりにした反対同盟・学生は、第二次行政代執行への対応を検討していた。
そして9月16日、第二次行政代執行を警備していた千葉県警および関東管区機動隊に、反対同盟が襲いかかったのである。

襲撃された機動隊は「神奈川連隊第2大隊 堀田大隊」であった。

画像 : 闘争で用いられた火炎瓶 wiki c 7GIT

堀田大隊は、16日朝に反対同盟の火炎瓶が隠されているという情報を受け捜索に当たるところで、各小隊を分散させてしまっていた。
そこへ、ゲリラとなった反対同盟の集団は火炎瓶を投げ込み、手にした角材・丸太・竹槍などで襲いかかった。

この襲撃で犠牲となった警察官は3名、大隊全体での負傷者は80人以上となったとされる。

このときの襲撃に使われた火炎瓶は、瓶としては大型になる「一升瓶」であったとされ、一度破裂すると10メートル近くも火柱が上がったという。

機動隊員たちは炎に全身を包まれながら、ある者は釘を打ち込んだ角材と鉄パイプで滅多打ちにされ、防弾チョッキを着ていた状態でも肋骨を折られ、ある者は倒れたところに濃硫酸をかけられたという。

襲撃者たちは、襲撃後の警官たちの証言を妨害するために、あえて顔や頭部に攻撃を集中したと証言する者もいる。

開港、古タイヤの黒煙を切り裂いて航空機が着陸

成田空港はなぜ建設されたのか?

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かくして、機動隊側に大きな損害を与えた「東峰十字路事件」であったが、反対同盟側にとっても大量の逮捕者を出したうえ、ぽつりぽつりと条件賛成派に回る農家も少なくなかった。

しかし、年が明けて1977年になっても反対同盟と機動隊との衝突は依然厳しいものだった。

反対同盟が航空機の飛行を妨害するために鉄塔を築けば、空港公団側は鉄塔撤去のために根本から切断、この鉄塔撤去に対して反対派はスクラムを組んで抗議した。
そのスクラムに対して機動隊が催涙弾を発射、発射した催涙弾が頭部に直撃したことにより活動家の1名が死亡した。

すると今度は、それに対する報復としての襲撃で、さらに警察官が1名死亡した(芝山町長宅前臨時派出所襲撃事件)。

このように、過激な反対運動による暴力と、それに対する強硬な排除という応酬が続く中で、1978年3月30日の開港日を予定し、公団側は着々と開港準備を勧めていた。

しかし、開港予定日の直前であった3月26日に、第四インターナショナル、プロレタリア青年同盟、戦旗・共産主義者同盟の構成員らが空港を襲撃、空港管理ビル内の管制塔に侵入し、設備を破壊するという事件が起きた(成田空港管制塔占拠事件)。

これによってさらに開港が遅れる中、空港連絡鉄道での列車妨害事件や航空局専用ケーブルの切断事件など、開港妨害は相次いだ。

ようやく開港日となった1978年5月20日、反対同盟と警察部隊との激しい衝突が続く中で成田空港は開港したのである。

5月21日、開港後初となる航空機は、反対同盟が燃やした古タイヤの黒煙を切り裂いて成田空港へ着陸したのだった。

成田国際空港のその後と影響

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成田国際空港は開港したものの、その後も反対同盟は「空港廃港」をスローガンとして活動を続けた。

しかし実際に空港が稼働を始めて既成事実化していくとともに、反対派同盟の内部の新左翼活動家による内ゲバや監視などが、住民側の離心を招いていった。

また、1990年に当時の運輸大臣で奇しくも農家出身の江藤隆美が初めて過去の経緯について謝罪し、対話の姿勢を見せた。当初こそ平行線であった両者だったが、やがて反対派同盟と行政との間に一定の対話と和解の機運が生まれた。

この後、複数回のシンポジウムや調査が繰り返されたことで、地権者らは徐々に移転に応じていくことになった。

現在、成田空港はおおむね順調に稼働を続けている。

しかし、現代に至っても反対運動当初に「一坪地主」となった地権者が移転に応じていない部分がある。
冒頭に紹介した成田空港の滑走路が湾曲していたのは、未買収地が残っているためだ。

新誘導路など機能強化を繰り返し施してきている成田国際空港であるが、未だにその処理能力はハンデを背負っている状態なのである。

こうして長期間にわたり、死者までもを出すことになった因縁のきっかけは、事業当初における「合意形成(コンセンサス)」の不足にあったとする見方が一般的だ。

この三里塚闘争以降、成田空港での一件は「合意形成をしっかりと行わなければ、後々まで禍根を残すことになる」という教訓として、国内だけでなく国外でも公共事業の基本的理念となっている。

おわりに

公共事業といえば大規模な工事になることも多い。

空港はその好例といえるだろう。空港ができれば利便性の向上や産業の活性化など国にとってメリットが多い。
しかし国全体や地域全体のメリットが大きいとはいえ、一人一人の住民の権利や意思が無視されても良いというわけではない。
なにより合意形成というプロセスは、必ずしも補償などの物質的・金銭的なものだけではなく、心情的なものもある。

三里塚闘争においては「最初から合意形成のための説明会を充分開いていれば反対運動など起こらなかった」とまで言うのは極論だとしても、運輸大臣の「謝罪」やその後の「意見交換」が奏功した部分も大きかっただろう。

そして警察官への暴行や設備の破壊といった違法行為は擁護すべきものではないが、住民側にも合意形成や意思決定の場に参加する熱意は必要だ。

今日、何気なく利用されている成田国際空港の歴史には、公共事業や行政と住民がいかに関わるべきかにおいて、学ぶべき点は多いといえよう。

 

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