「神仏分離」で神道を仏教の影響以前の姿へ戻す

画像 : 明治天皇 public domain
1867年(慶応3年)10月14日、江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜は、政権を朝廷へ返上する「大政奉還」を行った。
これを受け、同年12月9日には明治天皇の名において「王政復古の大号令」が発せられ、明治新政府が誕生した。
この大号令は、明治天皇を初代・神武天皇の再来として位置づけ、祭祀と政治が一体化していたと伝えられる神武天皇の時代を理想とする体制を復活させることを目指したものだ。
つまり明治新政府は「神道」を事実上の国教として位置づけ、天皇を中心とする国家体制を確立しようとしたのである。
そのため、長く「神仏習合」という形で共存してきた神道を、仏教の影響以前の“本来の姿”へ戻すことが求められた。
こうして明治政府は、1868年(明治元年)から「神仏分離」を進めるための具体的な政策を次々と布告していくこととなった。
ちなみに「神仏習合」とは、日本古来の神道と大陸から新たに伝来した仏教が融合し、神々を仏が救う存在として位置づけるなど、「仏教が主・神道が従」という思想によって形成された日本独自の宗教現象だ。
このような考えのもと、神社の近くに神宮寺が建てられたり、寺院内に鎮守社が祀られたりしたのである。
神仏分離政策が寺院などを破壊する「廃仏毀釈」を誘発

画像:経典が焼却される様子が描かれた『開化乃入口』 第二編下。(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
明治政府が神仏分離政策に着手した第一歩は、1868年(明治元年)3月13日の神祇官(じんぎかん)の再興であった。
神祇官とは、飛鳥・奈良時代に成立した律令制において朝廷の祭祀を司った官庁であり、応仁の乱以降は事実上廃絶していた。
明治政府は、この神祇官再興を祭政一致の象徴と位置づけ、1871年(明治4年)中頃まで、神仏分離に関する政策を矢継ぎ早に打ち出していった。
代表的なものは以下のとおりである。
●1868年(明治元年)3月17日……寺院に属しつつ神社の経営権を握っていた「諸国の神社の別当・社僧を還俗」させる。
●1868年(明治元年)3月28日……神社から仏像・仏具・仏語などの仏教的要素を排除し、権現・牛頭天王・菩薩などの仏教的神号を廃止する「神仏判然令」を発布。
●1869年(明治2年)7月8日……神祇官が太政官(最高国家機関)の上位に置かれ、国家の祭祀・神社行政を管掌する。
●1870年(明治3年)1月3日……天皇を現人神として神道の頂点に置き、国民への神道的教化の方針を示した「大教宣布の詔」が発せられる。
●1871年(明治4年)5月14日……全ての神社が国家管理となり、宮司などの神官の世襲が禁止され、新社格制度が設定される。
このようにして明治政府は、祭礼の中心である神道を、天皇崇拝を基盤とする国教的なシステムへと再構築していったのである。
しかし、この政策は結果として、寺院・仏像・経典の破壊などのいわゆる「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」を誘発し、その嵐は数年にわたり全国各地で吹き荒れることとなった。
10年弱で仏教美術など膨大な歴史的文化財を損失

画像:明治初年の興福寺・五重塔遠望古写真(明治5年・横山松三郎氏撮影)public domain
誤解のないように一言添えておきたいが、明治政府が打ち出した「神仏分離」は、必ずしも仏教を弾圧すること自体を目的としたものではなかった。
つまり、のちに全国へ広がる過激な廃仏毀釈運動は、政府が意図したものではなかったのである。
しかし政府の思惑に反し、廃仏毀釈は全国へ波及していった。
最初の廃仏毀釈は、1868年(明治元年)4月1日に起きたとされる。
滋賀県の日吉社(ひえしゃ)の神職が武装した一隊を率いて延暦寺に押しかけ、本殿の鍵の引き渡しを要求したが拒絶されると、本殿に安置されていた仏像や経巻類を破壊し、焼き捨ててしまったのである。
伊勢神宮を擁する三重県では、神宮と関係が深かった慶光院をはじめ多くの寺院が廃仏毀釈の対象となり、とりわけ宇治山田では寺院の75%にあたる196寺が閉鎖に追い込まれたと伝えられる。
また寺院の宝庫ともいえる奈良県・京都府でも、廃仏毀釈は苛烈を極めた。
奈良県では、春日大社の鎮守寺であった名刹・興福寺が廃寺となり、僧侶たちは全員還俗して春日大社の神職へと転じた。
五重塔はわずか25円(当時の巡査初任給4円から換算すれば、現代の130〜150万円相当)で競売にかけられ、売却される寸前であった。
落札者は塔に納められた金具類を目当てに木部分の焼却を試みたが、類焼を懸念した住民の反対運動によって中止され、五重塔は破壊を免れたという。
金堂は警察の屯所へ転用され、混乱のさなか警官たちが冬の寒さをしのぐため、貴重な天平仏を割って焚火にくべたと伝えられている。

画像:阿修羅像 public domain
この時期には、世親像・無著像・阿修羅像といった主要な仏像までもが、危機的な状況に置かれていた。
興福寺に伝わる国宝「乾漆十大弟子立像」のうち、現在同寺に現存するのは6体のみである。残る4体は、明治期の廃仏毀釈期の混乱や寺外流出の影響を受けたとされる。 
京都府では、祇園社が八坂神社、石清水八幡宮が男山神社、愛宕山大権現が愛宕神社へと改称され、仏教色の強い祭神は新たな祭神へと置き換えられた。
このほか、上野東照宮本地塔、久能山東照宮五重塔、北野天満宮多宝塔、鶴岡八幡宮大塔、江島三重塔、諏訪大社五重塔・三重塔など、由緒ある神社境内の神塔が、仏教的要素を理由に整理・破却されたという報告もある。

画像:廃仏毀釈の対象になった鶴岡八幡宮の大塔 public domain
廃仏毀釈の嵐は、1870年(明治3年)に発せられた「大教宣布の詔」を前後してピークに達し、その後は徐々に沈静化へと向かっていった。
しかし、その期間が10年弱という短さであったにもかかわらず、その影響はあまりにも甚大であった。
江戸時代には全国で約9万ヶ寺あったとされる寺院数は、およそ半数の4万5000ヶ寺ほどにまで減少し、寺院が所有していた建築物・仏像・経巻など、膨大な歴史的文化財が失われてしまったのである。
廃仏毀釈を推し進めた中心には、長年仏教勢力に圧迫されてきたと考えていた神職者たちがいた。
そこへ、平田派国学や水戸学の影響を受けた神職・民衆による仏像・仏具の破棄運動が全国的に広がると、人々は高揚した気分のままに仏教への反発心を強め、その結果として、廃仏毀釈は制御の利かない破壊運動へと発展していったのである。
※参考 :
安丸良夫著 『神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈』岩波新書刊
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部
























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