秀吉の幼名「日吉丸」は後世に付けられた

画像 : 狩野光信画『豊臣秀吉像』 public domain
豊臣兄弟、すなわち秀吉と秀長の出生には不明な点が多い。
秀吉の父は木下弥右衛門、秀長の父は弥右衛門あるいは竹阿弥であるとされるが、いずれも確証となる史料は残っていない。
通説では、秀吉が織田信長に仕え始めた頃、父の名「木下弥右衛門」にちなみ「木下藤吉郎」と名乗ったとされる。
また、秀吉の幼名として「日吉丸」が挙げられることがある。
伝承では、弥右衛門が男子の誕生を願い日吉山大権現(ひえさんのうごんげん)に祈願したところ願いが叶い、その加護にあやかって「日吉丸」と名付けたと語られている。
さらに、秀吉の生年が申(さる)年の天文5年であるという説から、猿を神使とする日吉神社にちなむ幼名とする言い伝えもある。
しかし近年では、秀吉の生年を1537年(天文6年)とする説が有力視されており、この「申年説」に基づく伝承は後世の創作と見てよいだろう。

画像:絹本著色日吉山王宮曼荼羅図 public domain
そもそも、秀吉の幼名を「日吉丸」とする説自体、確かな史料に欠けており、信憑性は高くない。
というのも、幼名とは平安時代から江戸時代にかけて、武士や貴族の子どもが元服まで名乗った名前であり、秀吉のような農民階級には本来用いられなかったからである。
なお幼名に「~丸」「~千代」が多いのは、当時は乳幼児死亡率が高かったことから、子どもの健やかな成長を願って縁起の良い文字を用いたためと考えられる。
とくに「丸」には、「麻呂」が転じたとする説や、「丸=円」のように欠けることのない完全な形を象徴するというめでたい意味もある。
一方、「丸」には、人の力が及ばないような神秘的な意味が込められているという説もある。
それは、人の命を預かる船の名前や、人の命を奪う刀剣の名前に「丸」が多く用いられることからも、その性格がうかがえるだろう。
ただし繰り返すが、これらの幼名は武士や貴族の子弟に限って用いられたものであり、農民出身とされる秀吉に付けられるのは不自然である。
「日吉丸」という名が文献に登場するのは、1626年(寛永3年)、儒学者の小瀬甫庵(おぜほあん)が書いた『太閤記』に最初だ。
同書は、能作者・大村由己(おおむらゆうこ)が、1580年(天正8年)の三木合戦から1590年(天正18年)の小田原征伐まで、天正年間の秀吉の活躍を記録した軍記物『天正記』を参考にしたとされるが、ここには「日吉丸」の記述は見られない。
従って、「日吉丸」という幼名は、小瀬甫庵によって創作された可能性が高いと考えられる。

画像:新日吉神宮の狛猿 public domain
また、1640年(寛永17年)に廃絶された秀吉の廟である豊国廟・豊国神社の参道を塞ぐように新日吉神宮が再建された事実も、1626年以降に「日吉丸」という名が付された経緯と、何らかの関係があるのかもしれない。
「木下」の姓は、妻おねの実家から引き継いだ?

画像 : 北政所・ねね『絹本着色高台院像』(高台寺所蔵)public domain
続いて、「木下」という姓は、本当に父・木下弥右衛門の姓を継いだものなのだろうか。
実はこれについても、現代の研究では疑問視されている。
前述のとおり、秀吉が「木下」を名乗り始めたのは、織田家に仕官した1554年(天文23年)頃からとされている。
そして、この織田家仕官ののちに、杉原定利の娘・おね(ねね/後の北政所)と出会い、当時としては珍しい恋愛結婚に至った。
杉原定利は、もとは木下定利と名乗り、杉原家の娘・こひ(後の朝日殿)に婿入りして杉原家を継いだ人物である。
その嫡男である定家、すなわちおねの兄は木下姓を称し、のちの初代足守藩主・木下定家となった。
定家が杉原姓ではなく木下姓を名乗ったのは、織田家中で頭角を現していく義弟・秀吉にあやかったためだとされるが、いつ頃から木下姓を使用したのかは明らかではない。
そうであるならば、むしろ秀吉が「木下」を名乗ったのは、おねとの結婚によって木下家を継ぐ意図があったからではないか、と考える方が自然だともいえる。

画像:豊臣秀長 public domain
もちろん秀吉の弟・秀長も、武士として織田信長に仕官してからは木下姓を使い、木下小一郎を称した。
秀吉はこの後、長浜城主となってから「羽柴」、その後は「平」「藤原」と姓を変え、1586年(天正14年)に後陽成天皇から「豊臣」を賜った。
一方、武士・秀吉の原点ともいえる木下の家名は、木下定家の家系が足守藩主として代々続き、明治維新を迎えるのである。
※参考文献
黒田基樹著 『羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで』角川選書刊
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部
























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