安土桃山時代

不敗の平法・富田重政【名人越後と呼ばれた剣豪】

富田重政とは

富田重政(とだしげまさ)は加賀藩主・前田利家・利長・利常の3代に仕えた重臣で「名人越後」と称された中条流の剣豪である。

戦国時代の多くの剣豪は寺・山・川・池などで修業をしている時に、突如開眼して奥義を得て数々の試合で名前を売って仕官するか道場を開いている。

名人越後こと富田重政は数々の戦で武功を挙げることで、前田家を100万石の大大名に導いた。

加賀藩前田家に不敗の平法をもたらした男・富田重政について追っていく。

生い立ち

富田重政は永禄7年(1564年)越前国の朝倉氏の家臣・山崎景邦の子として生まれる。
本名を山崎与六郎といい、父の景邦が中条流の富田家の門人であったために幼い頃より剣術に励んでいた。

中条流の宗家・富田長家とその息子・景政、そして父の景邦、この3人に剣術を習った。

その後、朝倉家が織田信長に滅ぼされたために、山崎家は織田家に仕えることになる。

富田重政とは

※前田利家

幼い時より抜きんでた剣術の才を見せた与六郎は、府中三人衆としてこの地を支配した前田利家に、わずか11歳にして100石で召し抱えられた。

中条流の富田景政は関白・豊臣秀次に剣術を指南したほどの達人であったが、跡を継ぐはずの息子を合戦で亡くしていた。

そこで門弟の中で一番腕の立つ与六郎が景政の娘と結婚して婿入りし、富田重政として中条流の跡目を継ぐことになった。

中条流とは

富田重政とは

富田家が受け継いで来た中条流は、室町時代に中条長秀が創始した剣術・小太刀・槍術・組み打ちなどの総合武術で、日本剣術の三大源流の一つとされている。

特に小太刀術の生みの親とされ、二尺(約60cm)の短い太刀を用いて戦う剣術を得意としていた。

中条流は「柔よく剛を制す」を基本にした小太刀の技を「平法(へいほう)」と呼んで武の威徳によって災いを未然に防ぐことを本意とした。

中条家が3代で断絶したために当時は富田家が中条流を継承していたので、一般的には富田流と呼ばれるようになっていた。

富田重政とは

※富田勢源の肖像

富田景政の兄・富田勢源も、薪1本で真剣の相手を倒したという逸話を持つ小太刀の達人だったが、眼病を患い弟に跡目を譲っている。

富田家に婿養子に入った重政は、前田家と家臣団の剣術指南役を務めた。

名人越後

富田家の家督を継いだ重政は(1583年)能登国末森城の戦いで1番槍の武功を挙げ、前田利家から称賛されて重臣に取り立てられる。

小田原の北条攻めでも武功を挙げて、義父・景政が亡くなったために遺領の3,400石を継ぐ。

慶長元年(1597年)には従五位下下野守に叙任されて後に「越後守(えちごのかみ)」と改める。

慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは重政は北陸戦線で輜重隊(しちょうたい・軍需品の輸送隊)を率いて奮戦する。
その後も大聖寺城攻め・浅井畷の戦いでも戦功を挙げて13,670石を与えられる。

その素晴らしい活躍から「名人越後」と称される。

金沢城の新丸に屋敷が与えられてその邸宅は「越後屋敷」と呼ばれるようになった。

当時の剣術指南役としては破格の好待遇で、諸藩の剣術指南役はだいたい300石以下が相場であった。

徳川将軍家の剣術指南役の柳生宗矩が12,500石だったのだから、重政の待遇は剣術指南役として全国一番の石高であった。

無刀取り

富田重政とは

前田利常の肖像

前田家3代・前田利常が茶室で重政に「そなたの家には無刀取りの術があると聞く、ではこれを取ってみよ」と真剣を抜いた。

重政は「無刀取りの術は我が家の秘密、後ろ戸の隙間から人が覗いているので、これを制してくだされば御意に従いましょう」と言った。

利常が後ろを振り向いた瞬間に、重政は利常の拳をガッチリ握って「我が家の無刀取りとはこれです」と言ってその場を収めた。
きっと利常は無刀取りを柳生新陰流の「無刀取り」や「真剣白刃取り」をイメージしていたはずだ。

重政の無刀取りは地味な技だが中条流平法の極意「戦わないこと」すなわち不敗の意味が込められている。

戦場で数々の武功を挙げた重政だったが、派手な試合などを行わなかったとされている。

それは試合がもとで遺恨となることを禁じていたからだ、重政はその中条流の教えを忠実に守った人物だった。

摩利支天

摩利支天 wiki(c)小池 隆

慶長11年(1606年)前田家2代・前田利長の命で、重政は金沢城を敵に攻められた時に要所となる、金沢の卯辰山に摩利支天堂を建てる。
摩利支天は日本では護身や蓄財の神として信仰されており、前田家は軍神として敬っていた。

慶長18年(1613年)重政は隠居していたが利常に請われて大坂の陣に従軍することになった。

冬の陣で重政の軍が夜間に出陣していた時に突如、敵の銃弾の音が聞こえたために兵がパニック状態になった。

重政は慌てずに右手にロウソクを持ち、左手で手綱を持って馬を乗り回しながら軍兵を鎮める。
しかも、その戦いで隠居の身でありながら19の首を捕った。

その姿に前田家の兵は重政を軍神「摩利支天」のようだと褒め称えた。

重政は中条流の教えを守り他流派との試合を避けていたが、ある時、徳川3代将軍・家光から将軍家指南役の柳生宗矩との試合を持ち掛けられる。
重政はこれを受けて江戸に向かう準備を進めるが、突然中止の知らせを受ける。

家光は「竜虎相打つとの言葉もあるように名人同士が試合をすれば、いずれか一人に汚名がつくからだ」と理由を伝えた。
このことで、柳生宗矩が重政に負けることを恐れたために逃げたのではないかという噂を呼んだ。

柳生宗矩が勝負を逃げたのは天下に2人と言われ、九州のタイ捨流の丸目蔵人と加賀藩中条流の富田重政であり、その名は天下に知れ渡る。

寛永2年(1625年)重政は62歳で亡くなった。

重政は家督を長男・重家に譲るが24歳で早死にしてしまい、家督は次男・重康が継いで「越後守」を称した。

重康は晩年に中風という病気にかかりながらも病に負けず、立派な働きをしたために「中風越後」と呼ばれた。

おわりに

富田重政は剣術の腕を買われて、わずか11歳で前田利家に仕えた。

剣術指南役・重臣として前田利家・利長・利常と共に戦場を駆け抜けて、加賀前田100万石の礎を築いた重政を前田家の家臣たちは「名人越後」・「生きた軍神(摩利支天)と称した。

前田家は富田重政が説いた中条流の教え「平法」の武を表に出さない(幕府に対して)姿勢を貫き通し、明治維新まで100万石を守ったのである。

 

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