先日、最終回を迎えた大河ドラマ「べらぼう」。
その中で、短い場面ながら『新吉原町定書』が取り上げられていました。
晩年を迎えつつある蔦屋重三郎(横浜流星)は、長谷川平蔵(中村隼人)から「実は岡場所に大掛かりな“警動”が入る。その者らはみな吉原に押し込まれる」と伝えられます。
警動(けいどう)とは、江戸時代に行われた、営業許可を持たない非公認の私娼街や賭博場などに対する取り締まりのことです。
吉原のような幕府公認の遊所制度を維持するため、必要に応じて実施されていました。
警動によって検挙された岡場所の私娼たちは、吉原に引き渡される措置が取られることもありました。
ドラマ「べらぼう」では、「岡場所の人間たちが吉原になだれ込めば秩序が乱れ、遊女たちの格も下がってしまう」と妓楼主たちが危機感を募らせます。
そこで蔦重は、吉原を守るため厳しいルールを定めようと、妓楼主たちに『新吉原町定書』の作成を呼びかけたのでした。
それは、どのようなものだったのでしょうか。

画像:私娼・飯盛女 恋川笑山『東海道五十三次』より「小田原」public domain
無許可営業の岡場所や宿場に客を奪われる「吉原」
「べらぼう」の第1話、1773年(安永2年)頃。
深川や本所などにある無許可営業の岡場所や、品川や新宿などにある飯盛女(私娼)を置いた宿場に客を奪われて、吉原の客足は減る一方でした。
吉原で生まれ育った蔦重は、女郎たちが満足に食事も取れないほど困窮している状況を何とかしたいと考え、「岡場所に警動を入れてほしい」と田沼邸を訪れ、老中・田沼意次(渡辺謙)に直訴します。
岡場所に手入れが入り閉鎖されれば、再び吉原に客が戻ると考えたからです。

画像 : 田沼意次の肖像画(勝林寺蔵)public domain
しかし意次は、「岡場所のある宿場町を取り締まって潰してしまえば、商いの機会が減り、結果として国益を損なうことになる」として、この訴えを退けます。
さらに、「警動を求めるよりも、吉原の妓楼主が高い取り分を得ている仕組みを改め、客を呼び戻す工夫をするべきだ」と諭されてしまいました。
それでも蔦重は諦めませんでした。
客足を取り戻すために何ができるのかを考え抜いた末、その答えの1つとして『吉原細見(吉原のガイドブック)』を刷新することに行き着き、これが出版業へと踏み出す契機となります。
ところが、蔦重が警動を願い出たこと自体に、吉原の妓楼主たちは強い反発を示しました。
警動が行われれば、検挙された岡場所の私娼たちを吉原が引き取ることになり、町の秩序が乱れると危惧されたためです。
ドラマではその結果として、蔦重が「桶伏せ」と呼ばれる私刑を受ける場面が描かれています。
せめて「吉原をいい場所にする」
そして「べらぼう」の最終話で、再び“警動”の話題が登場します。
蔦重は、長谷川平蔵から大掛かりな警動が行われることを知らされ、岡場所の人間が流れ込んで混乱が生じるであろう苦界の吉原であっても、「時には蓮の花が咲く泥沼であってほしい」と語りかけられます。
この言葉は、地獄のような吉原の世界から背筋を伸ばして大門を出て、紆余曲折を経ながらも、今は籠屋の女将として家庭を持ち、自分の人生を歩んでいる元花魁・瀬川(小芝風花)の姿を重ね合わせたものと受け取ることができるでしょう。
瀬川と幼なじみだった蔦重は、彼女が身請けされる際に、「いつか吉原をいい場所にしたい。それがお前と俺の共通の夢だ」と語っていました。
その言葉を胸に、少しでもその夢に近づこうと、蔦重は警動が行われることを吉原の妓楼主たちに伝えに向かいます。

画像:桜の季節の艶やかな花魁。吉原「吾妻源氏雪月花ノ内」「花」歌川国貞 public domain
「吉原」の流儀を変えて岡場所にしないために
すでに吉原の妓楼主たちは、岡場所のやり方に辟易していました。
「相変わらずあいつらは茶屋も通さない」「食えない女芸者は色を売り出すし、料理屋もばたばた潰れている始末だ」「俺たち(吉原)のほうがやり方を変えるしかないのか」「吉原の流儀を変えて岡場所になるしかないのかねぇ」と、口々に蔦重に訴えます。
その声を受けて蔦重は、
「町の定書を作るのはどうです?この町で商売をするなら守らなければならないしきたりを書き、上から正式なお墨付きをもらうのです」
「無粋きわまりないけど、このままじゃぁ吉原の流儀はすたれる。流儀がすたれ、吉原がよくなるならいいが町もすたれる。向こう(岡場所)の流儀に合わせることもありません」
と説きます。
さらに蔦重は、「女郎の扱いについても、すべて定書に書き込んでしまいましょう」と踏み込みました。
こうして吉原の関係者たちは協議を重ね、全81ヶ条に及ぶ『新吉原町定書』をまとめ上げ、ご公儀のお墨付きをもらったのです。

画像:岡場所(深川)歌川国貞 public domain
細かく決められた『新吉原町定書』
史実では『新吉原町定書』は、寛政7年(1795)に成立したとされています。
研究上は「寛政規定」や「規定証文」とも呼ばれ、現存する史料を見ると、その内容は非常に細かく定められていることが分かります。
例えば「客に関する規定」では、来客の名前の記録方法、刀や腰の物の扱い、不審な客を留め置いた場合の報告、客の預かり物の管理などが定められていました。
中には「客の長居」に関する条文もあり、現代にも通じる迷惑行為への対策が盛り込まれています。
江戸の町につきものだった「火事」に関しても、定書はきわめて具体的です。
火の元の取り締まりはもちろん、中之町通りの茶屋店役による巡回、火消し人足の手当て、出火時における遊女の避難方法、さらには火消し人足へ渡す衣類の扱いに至るまで、細かく取り決められていました。
また「遊女に関する規定」では、病気の遊女の取り扱いや別荘での養生、衣類や髪飾り、夜具、身揚げ、年季明けに関する事項が定められています。
加えて、新造出しの際の衣類や付金、下男下女の仕着の扱い、客が芸者を呼ぶ際に新造を何人付けるかといった細部にまで及んでいます。
特に興味深いのは、金銭を持たない客に遊女を出し、揚代の代わりに衣類を留め置く場合の扱いや、他の遊女屋へ通った馴染み客への嫌がらせを禁じる規定、喧嘩や口論が起きた際の対処法など、実際に起こり得るトラブルを想定した条文が数多く設けられている点です。
現場の実情を踏まえた現実的な規定だったことがうかがえます。

画像:新吉原の花魁たち 歌川国貞 public domain
岡場所の女性たちの中からもトップクラスの太夫が
当時、警動によって捕らえられた私娼たちは、一括して「新吉原町へ被下置候」とされ、吉原側に引き渡されました。
その後、妓楼主人による入札のかたちで引き取られ、一定期間、廊に置かれる措置が取られたことが史料から確認できます。
期間は最長で3年に及ぶ場合もあり、その間は実質的に拘束された状態で勤めに就かされました。
短い場合でも100日余りとされており、家族を養う者や借金を抱えていた私娼にとって、自由を奪われて働き続けることは大きな負担だったと考えられます。
吉原では、こうして捕らえられた岡場所の女性たちが蔑称で呼ばれることもあり、立場の弱い存在として見られていたと伝えられています。
しかし、そのような境遇に置かれた女性たちの中からも、やがて吉原の頂点に立つ者が現れました。

画像 : 歌川国貞「古今名婦伝」『丹前風呂勝山』(1863年・文久3年)public domain
私娼の中でも、湯屋で働いていた「湯女」と呼ばれる女性の一人、勝山は、その装いや髪型が大流行し、現代で言えばファッションリーダーのような存在になったとされています。
厳しい泥沼のような環境であっても、そこから花を咲かせた女性が確かに存在したのです。
勝山もまた、「泥の中に咲いた蓮の花」の一人だったのかもしれません。
その“蓮の花”の物語については、いずれあらためて触れる機会があればと思います。
参考:
図説 吉原事典 (朝日文庫) 永井義男
新吉原「規定証文」からみる江戸幕府の遊所政策(一橋大学機関リポジトリ)
文 / 桃配伝子 校正 / 草の実堂編集部
























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