安土桃山時代

なぜ大名たちは「羽柴」だらけになったのか?豊臣秀吉の苗字支配戦略

豊臣秀吉は、最初の「木下」から最後の「豊臣」に至るまで、生涯の中で五つの異なる名乗りを用いている。

その変遷を整理すると、木下・羽柴という苗字(名字)と、平・藤原・豊臣という朝廷的な氏(うじ)とが、時期や場面に応じて使い分けられていたことが分かる。

秀吉といえば、やはり「豊臣秀吉」である。
多くの教科書にも、この名で登場するのは言うまでもない。

ただし、秀吉にまつわる書籍などでは、豊臣になる前の名として「木下藤吉郎」や「羽柴秀吉」もよく使われており、目にする機会は多いだろう。

また、秀吉が一時期「平」や「藤原」といった朝廷的な名乗りを用いていたことは、あまり知られていないのではないだろうか。

こうした名乗りの変遷を踏まえたうえで、今回は、とくに豊臣秀吉の「苗字(名字)=羽柴」と、「氏(うじ)=豊臣」にまつわる話をしていきたい。

特別な存在である秀吉だから「豊臣」を名乗る資格があった

画像 : 豊臣秀吉坐像(狩野随川作)public domain

まずは、秀吉が木下・羽柴といった苗字(名字)や、平・藤原・豊臣といった氏を、いつ頃用いていたのかを見ていこう。

「木下」という名乗りは、杉原家の娘ねね(後の北政所)と結婚した頃から、浅井長政が滅亡する天正元年(1573)前後まで用いられていたと考えられている。

史料上の用例からみて、少なくとも織田家中で頭角を現す以前の秀吉は、「木下藤吉郎」を名乗っていた時期が長かった。

次の「羽柴」は、浅井討伐戦で功を挙げた秀吉が、織田信長から長浜城主に抜擢された際に名乗ったものだ。

織田家の重臣である柴田修理亮勝家と丹羽五郎左衛門長秀の名にあやかって付けられたとされる。

「羽柴」という苗字は、浅井討伐後の天正元年(1573)頃から用いられるようになり、以後、秀吉の主たる苗字として長く使われることになる。

画像 : 丹羽長秀 public domain

1582年、本能寺の変が起こり、山崎の戦いで明智光秀を討つと、秀吉の地位は柴田氏や丹羽氏と並ぶ、あるいはそれを凌ぐものとなった。

そこで秀吉は、朝廷的な権威付けを意識し、文書上では「平秀吉」「平朝臣秀吉」といった形で「平」を冠した名乗りが見えるようになる。

武家の棟梁としてのみならず、朝廷秩序の中で自らの地位を位置づけようとした試みであった。

さらに1585年、朝廷から関白宣下を受けるにあたり、近衛前久の猶子となって、朝廷的には「藤原」氏を称する形をとった。

これは、関白という公家社会の最高位に就くにあたり、朝廷秩序に即した家格と氏の整合性が求められたためであった。

もっとも、秀吉が「平」を名乗った期間はおよそ3年、「藤原」を名乗ったのもわずか1年半ほどにすぎなかった。

というのも、1586年、後陽成天皇の裁可を受けて「豊臣」を名乗ることが認められ、秀吉は以後、「豊臣秀吉」と名乗るようになったからである。

この「豊臣」という氏の由来については、実のところ明確なことは分かっていない。

しかし、秀吉の右筆であった大村由己は『任官之事』の中で、「古姓を継ぐは鹿牛の陳跡を踏むがごとし」と述べ、秀吉が既存の氏や家格をそのまま引き継ぐことを好まなかったと伝えている。

さらに秀吉は、「われ天下を保ち末代に名あり。ただ新たに別氏を定め、濫觴たるべし」と語ったとされる。

これは、戦国乱世を収束させた特別な存在である自分だからこそ、「源」「平」「藤原」「橘」に並ぶ、新たな氏を創始できるのだという自己認識を示した言葉であった。

こうして秀吉の名乗りは「豊臣秀吉」に定まり、弟の秀長もまた「豊臣秀長」を称することになったのである。

秀吉の苗字はあくまで羽柴だった

画像 : 源頼朝の肖像 public domain

ところで、読者の方々は「氏(うじ)」「姓(かばね)」「苗字(名字)」の違いをご存じだろうか。

現在では、これらはいずれもまとめて「名字」や「姓」として扱われることが多いが、前近代においては、それぞれ異なる役割と歴史的背景を持つ概念であった。

氏とは、一族の出自や血統を示す呼称であり、特定の祖先を共有する同族集団を表すものである。

一方、姓(かばね)は、古代に大和朝廷が豪族に与えた称号に由来し、本来はその家が朝廷秩序の中で占める地位や役割を示す制度的な名称であった。
平安時代以降になると、「朝臣(あそん)」などの形に整理され、公的文書や任官の場で用いられる身分表記として定着していく。

これに対して苗字(名字)は、居住地や所領、家の呼び名に由来する実務的な名乗りであり、日常の場で広く用いられた。

氏の代表例としては、「源氏」「平氏」「藤原氏」「橘氏」などが挙げられる。

これらの氏に属する人物は、朝廷から「朝臣」などの姓(かばね)を与えられ、公式の場では「源朝臣○○」「平朝臣○○」といった形で表記された。

一例を挙げると、鎌倉幕府の執権・北条氏は、桓武天皇を祖とする桓武平氏の末裔であるため、氏は「平」に属する。

そのため、朝廷的な文書では「平朝臣時政」と記されることがあった。

一方で、日常的・政治的な場面では、本拠地に由来する苗字である「北条」が用いられ、「北条時政」と呼ばれていた。

したがって、初代執権・北条時政の名乗りは、通称としては北条時政であり、朝廷的・公式には平朝臣時政と整理される。

これに官職名を加えた場合、その正式な表現は「北条遠江守平朝臣時政(ほうじょう・とおとうみのかみ・たいらの・あそん・ときまさ)」となるのである。

この考え方に従えば、豊臣秀吉の場合、朝廷によって公認された「豊臣」は一族を示す氏にあたるため、ややこじつけではあるが、形式的には

「羽柴太政大臣豊臣秀吉(はしば・だいじょうだいじん・とよとみの・ひでよし)」

と表現することも可能であろう。

このように、あくまで苗字は従来どおり「羽柴」であることに注目したい。

多くの諸大名に「羽柴」苗字を与えた秀吉の政治的意図とは

画像 : 織田信長 public domain

話が元に戻るが、豊臣秀吉・秀長の場合は、日常的な呼称として「氏(豊臣)+名(秀吉・秀長)」の形で呼ばれている。

このように書くと、「それが普通ではないか」と思われる方も多いかもしれない。

では、徳川家康や織田信長はどうだろうか。

徳川家康は、朝廷的な系譜整理の上では清和源氏の末裔として「源」に位置づけられ、織田信長についても、系譜上さまざまな位置づけが語られてきた。

しかし実際には、そのような呼称が用いられることはなく、私たちは「徳川家康」「織田信長」と、苗字(名字)+名で彼らを認識している。

この理屈で考えれば、秀吉の場合も、豊臣という氏を賜ったからといって、「羽柴から豊臣へ改姓した」と理解するのは正確ではない。

豊臣は朝廷から与えられた氏であり、羽柴は従来どおり用いられていた苗字なのである。

ではなぜ、足利尊氏ら室町幕府将軍や、徳川家康ら江戸幕府将軍とは異なり、秀吉とその後継者である宗家の人々(秀次・秀長・秀頼)は「豊臣」を名乗ることができたのだろうか。

それは秀吉が、人臣として、また武家として、太政大臣・関白というこの上なく高い官位にまで上り詰めたからである。

画像 : 狩野光信画『豊臣秀吉像』 public domain

そして最後に一つ、重要でありながらあまり知られていない事実を紹介しておこう。

それが、秀吉による「羽柴」苗字の乱発である。

豊臣政権下では、その中核をなす大名の多くが「羽柴」を名乗っていた。

もちろんこれは、秀吉が彼らに「羽柴」の苗字を与えたためであり、与えられた大名たちは、秀吉の一門衆として位置づけられたのである。

例えば、天正15年(1587)正月1日付の羽柴秀吉朱印状写(島津文書)には、

羽柴備前少将(宇喜多秀家)
羽柴丹後侍従(細川忠興)
羽柴中納言(羽柴秀長)
羽柴伊賀侍従(筒井定次)
羽柴若狭侍従(丹羽長重)
羽柴丹後少将(羽柴秀勝)
羽柴越中侍従(前田利長)
羽柴北庄侍従(堀秀政)
羽柴東郷侍従(長谷川秀一)
羽柴松島侍従(蒲生氏郷)
羽柴岐阜侍従(池田照政)
羽柴曾祢侍従(稲葉典通)
尾張大納言(織田信雄)
羽柴敦賀侍従(蜂屋頼隆)
羽柴陸奥侍従(佐々成政)
羽柴左衛門侍従(津川義康)
羽柴河内侍従(毛利秀頼)

の諸大名の名がみえる。

画像:豊臣秀長 public domain

このように、秀吉の弟・秀長や甥・秀勝といった血縁関係にある一門衆が「羽柴」の名乗りを称するのは当然としても、秀吉の主筋にあたる織田信雄を除き、かつては同僚であった旧織田家臣団にまで「羽柴」苗字が広く与えられている点は、注目に値する。

しかも彼らは、少将・侍従といった官名で呼ばれており、これは、武家でありながら、公家的な身分秩序を併せ持つ存在であったことを意味している。

すなわち秀吉は、朝廷における最高位という立場を利用し、諸大名を任官させることで、彼らを「武家公家衆」として再編成し、自らの統制下に組み込んでいったと考えることができよう。

こうした秀吉による「羽柴政権」の構築過程には、未だ不明な点が多く残されている。

しかし、農民以下の出自であったとされる秀吉には、代々仕えた譜代と呼べる家臣が存在していなかったのも事実である。

秀吉が「羽柴」姓を広く与えた背景には、そのような出自的制約を補い、新たな主従関係と政治秩序を創出しようとした意図があったのかもしれない。

※参考文献
黒田基樹著 『羽柴を名乗った人々』 角川文庫刊
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

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