秀長とともに、秀吉の補佐役を務めた寧々

画像 : 北政所・ねね『絹本着色高台院像』(高台寺所蔵)public domain
北政所(きたのまんどころ)・寧々(ねね)は、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉の正室であり、一般には「ねね」あるいは「おね」の名で親しまれている。
北政所とは、もともと摂政・関白の正妻の居所や立場を指す呼称であり、必ずしも個人名や正式な官職名ではなかった。
しかし今日において「北政所」といえば、天下人となった秀吉の正妻・寧々を指す呼称として定着していると言っても過言ではないだろう。
大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、浜辺美波さんが演じる寧々は、明るく元気で、物事をはっきり言う性格に描かれている。
その寧々について、公式サイトの人物紹介には、次のようにある。
「夫の秀吉とともに天下人への階段を昇りつめる豊臣秀吉の正妻。秀吉が関白に就任したのちは北政所と称される。負けず嫌いの性格で、夫とともに出世街道を駆け抜け、やがて庶民の娘から“戦国のファーストレディ”へと昇りつめる。」
史実においても、寧々は単なる「秀吉の妻」にとどまらず、天下人となった秀吉を内政・外政の両面から支えた、卓越した政治的手腕を備えた女性であった。
ドラマでは、仲野太賀さん演じる豊臣秀長が、池松壮亮さん演じる秀吉の有力な補佐役として描かれているが、実際には寧々もまた、秀吉の権力基盤を支えるうえで欠かせない存在だったのである。
高台寺から東山を北へ、寧々と秀吉ゆかりの地を歩く

画像 : 徳川家康肖像画 public domain
寧々が秀吉の補佐役として最も手腕を発揮したのは、朝廷や寺社との折衝であった。
豊臣政権が朝廷と円満な関係を築くことができた背景には、北政所としての彼女の働きがあったからにほかならない。
また寧々は、淀殿をはじめ二十人ほどいたとされる豊臣家の側室や、大名から預かった人質の管理も一手に担っていた。
秀吉の死後、豊臣家が次第に凋落していくなかで、徳川家康は寧々の影響力を警戒していたと伝えられている。
それは、彼女が朝廷や大寺院、さらには秀吉の大名統制を補佐する過程で築き上げた人脈が、きわめて広範かつ強固なものであったからである。
実際、多くの大名の子息たちは、豊臣家で人質として過ごす間に寧々のもとで養育され、その薫陶を受けていた。
豊臣秀頼・淀殿と敵対する立場に立った第2代将軍・徳川秀忠でさえ、寧々を「おふくろさま」と呼び、深く敬愛していたといわれている。

画像:秀吉と北政所の霊を祀る高台寺霊屋(撮影:高野晃彰)
豊臣家滅亡後、寧々は高台寺にあって秀吉の菩提を弔い、静かな余生を送った。
現在、その塔頭寺院である園徳院を含む一帯は、「ねねの道」として広く親しまれている。
冬の一日、高台寺から東山を北へと歩き、寧々と秀吉の面影を求めて、知恩院や青蓮院、左阿彌などのゆかりの地をめぐった。
そこに浮かび上がるのは、豊臣家から徳川家へと政権が移り変わる京都の姿である。
本稿では、その歴史の痕跡を辿りながら、時代のうねりを案内していきたい。
秀吉の菩提を弔う寺院「鷲峰山 高台寺」

画像:高台寺。臥龍廊と開山堂(撮影:高野晃彰)
高台寺は、臨済宗建仁寺派に属する寺院で、正式名称を鷲峰山高台寺聖寿禅寺という。
1606年(慶長11年)、寧々が豊臣秀吉の菩提を弔うため、当初は曹洞宗の寺院として創建した。
「高台寺」という寺名は、寧々が出家して高台院と号したことに由来する。
寧々は、実母・朝日局が眠る寺町の康徳寺の仏殿を移築し、方丈や茶室は伏見城から移したが、仏殿や方丈など主要な建物は後年の火災によって焼失している。
1624年(寛永元年)には、建仁寺の三江紹益を迎え、臨済宗へと改宗した。
寧々の終焉の地である「京都 東山・圓徳院」

画像:圓徳院の北庭(撮影:高野晃彰)
圓徳院は高台寺の塔頭で、伏見城の化粧御殿を移築した寺院であり、寧々の終焉の地とされている。
池泉回遊式の枯山水庭園である北庭は、化粧御殿の前庭を移したもので、桃山時代の原型をほぼそのまま留める庭園の一つである。
のちに小堀遠州が手を加えたと伝えられている。
また、長谷川等伯による襖絵は、桐紋を雲母刷りとした唐紙襖(雲母の粉末を混ぜた絵具を用い、手刷りされたもの)に描かれた非常に珍しい作例で、重要文化財に指定されている。
戦乱に人生を左右された女人ゆかりの「黄台山 長楽寺」

画像;長楽寺。建礼門院ゆかりの寺院(撮影:高野晃彰)
長楽寺は天台宗の寺院として、805年(延暦24年)、桓武天皇の勅命により最澄が開創した。
その後、室町時代初期に国阿上人によって時宗へと改宗している。
同寺は、平安時代末期、源平の戦いに敗れた安徳天皇の生母・建礼門院が出家した寺として知られ、境内には建礼門院の毛髪塔と伝えられる十一重石塔が残されている。
寧々と同様、戦乱によって人生を大きく左右された女人にゆかりの深い寺院である。
豊臣家の部将・織田頼長が隠棲した旧跡「料亭 左阿彌」

画像:料亭 左阿弥の門前に立つ織田頼長の碑(撮影:高野晃彰)
織田頼長は豊臣家の部将として、大坂冬の陣では父・長益(有楽斎/信長の弟)とともに大坂城に籠城し、1万余の兵を率いて二の丸玉造口の守備を担っている。
しかし、大坂夏の陣を前に城を退去して入道し、織田道八(おだどうや)と名乗ってこの地に隠居した。
その後は、長益が創始した茶道・有楽流を継承し、茶人として静かな余生を送ったと伝えられる。
豊臣家滅亡という歴史的転換点のただ中にあった寧々と、頼長との交流については詳らかではない。
京都防衛の城郭の役目も担った「浄土宗総本山 知恩院」

画像:知恩院。三門は日本最大級の木造門(撮影:高野晃彰)
知恩院は、比叡山を下った法然がこの地に吉水庵を結び、布教活動を開始したことに始まる寺院であり、ここはまた法然上人入寂の地でもある。
1575年(天正3年)には、正親町天皇より浄土宗の総本山として認められた。
江戸時代初期には、徳川家康・秀忠父子の援助を受け、現在見るような壮大な伽藍が完成した。
石段と石垣に囲まれた境内は、さながら城郭のような構えを見せるが、実際に江戸幕府は有事の際、知恩院と金戒光明寺を京都防衛の拠点と位置づけていたとされる。
秀吉ゆかりの手水鉢がある門跡寺院「天台宗 青蓮院門跡」

画像:青蓮院門跡。豊臣秀吉が寄進した一文字手水鉢(撮影:高野晃彰)
延暦寺三門跡の格式を誇る寺院である。
1778年(天明8年)の皇居炎上の際には、光格天皇の仮御所となったことから、「粟田御所」とも呼ばれる。
寧々ゆかりの遺物としては、「一文字手水鉢」が知られている。
小御所の建物近く、渡り廊下に面して据えられた巨大な自然石の手水鉢で、太閤・豊臣秀吉の寄進によるものである。
DATA
●高台寺公式サイト
https://www.kodaiji.com/
●圓徳院公式サイト
https://www.kodaiji.com/entoku-in/
●長楽寺公式サイト
https://www.chorakuji.or.jp/
●左阿彌公式サイト
https://www.saami.jp/
●知恩院公式サイト
https://www.chion-in.or.jp/
●青蓮院公式サイト
https://www.shorenin.com/
※参考文献
京あゆみ研究会(高野晃彰)著 『京都ぶらり歴史探訪ガイド』メイツユニバーサルコンテンツ
文:写真/高野晃彰 校正/草の実堂編集部
























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