奈良を訪れるたび、たとえ滞在時間が限られていたとしても、どうしても足を運ばずにはいられない場所がある。
それが、飛鳥(奈良県明日香村)である。
古代国家誕生の息吹が今なお残るこの地に立つと、不思議と二人の皇子の姿が脳裏に浮かぶ。
草壁皇子(くさかべのみこ)と、大津皇子(おおつのみこ)。
ともに天武天皇の子として生まれ、次代の王として期待された存在だった。
『万葉集』に情熱的に詠まれ、悲劇の皇子として語り継がれる大津。
一方で、もの静かで存在感の薄い皇太子として描かれることが多い草壁。
草壁皇子は、時には大津皇子よりも才に劣り、脆弱で凡庸な人物であったかのように評価されてきた。
だが、そのイメージは果たして史実に即したものなのだろうか。
天武天皇の政治判断、そして奈良時代へと続く皇統の流れを丹念に追っていくと、まったく異なる草壁皇子の姿が浮かび上がってくるのである。
凡庸と決めつけられた皇太子・草壁皇子のイメージとは

画像:草壁皇子・イメージ(日本服飾史)
草壁皇子の政治的ライバルであった大津皇子の死については、鵜野皇后(うののこうごう/後の持統天皇)の謀略説が名高い。
それは、天武天皇崩御直後の混乱期に、皇太子である草壁の地位を大津に脅かされることを恐れ、無実の罪を着せたうえで死を命じたというものである。
ただしこの説は、草壁が大津と比べて取るに足らない凡庸な人物であったという見方を前提としている。
大津が「悲劇の皇子」として語られる一方、草壁については正史における記述が少ないことも、その理由の一つとされてきた。
しかし、草壁が正史にあまり登場しないのには明確な理由がある。
彼は皇太子でありながら即位前、しかも28歳という若さで死去しているからだ。
また、天武天皇という絶対的な権力者が健在であった時代に、目立った事績を残していないことは、決して不思議なことではない。
草壁が大津に比べて凡庸と見なされてきた背景には、健康上の問題があったのではないかという推測もある。
天武崩御後も皇太子の地位にありながら即位せず、鵜野皇后が称制を行ったことからも、その可能性はうかがえる。
この点には当時の即位基準も関係していた可能性がある。
というのも天武朝以前においては、30歳を超えなければ天皇に即位する例はほとんどなかったからである。

画像:持統天皇 public domain
天武と鵜野の願いはただ一つだったと思われる。
それは、679年に彼らが、草壁・大津・高市・川島・忍壁・志貴の六皇子を伴って吉野に行幸し、草壁を頂点として諸皇子が結束することを誓った「吉野盟約」の実現である。
この盟約で誓われたのは、天武の次の治世は草壁が天皇に即位し、彼を中心に高市や大津ら諸皇子がこれを補佐する体制を築くことだった。
そのうえで律令体制を整え、強固な中央集権国家を確立することこそが、天武と鵜野の目指した国家像だったのである。
万葉集が作り上げた「モテない皇子」草壁の人物像

画像:大津皇子・イメージ(日本服飾史)
草壁皇子と大津皇子の能力の差を語る際、しばしば引き合いに出されるのが、『万葉集』に収められたあるエピソードである。
それは、両皇子が石川郎女(いしかわのいらつめ)という女性をめぐって競い合ったという話だ。
二人は、それぞれ石川郎女に熱烈な思いを込めた和歌を贈っている。
まず、大津皇子が詠んだ一首を紹介しよう。
「あしひきの 山のしづくに 妹待つと 我立ち濡れぬ 山のしづくに」
(現代語訳:山の雫に打たれながら、君を待ち続け、私はすっかり濡れてしまった)
『万葉集』巻二・一〇七
続いて、草壁皇子の一首である。
「大名児を 彼方野辺に 刈る草の 束の間も われ忘れめや」
(現代語訳:大名児――石川郎女が野辺で草を刈るそのわずかな間でさえ、私は君を忘れることなどできようか)
『万葉集』巻二・一一〇
二人の貴公子から熱烈な思いを寄せられた石川郎女。
しかし、この一連の歌群は、皇太子であった草壁ではなく、大津皇子に心を寄せた女性の物語として読まれてきた。
そして彼女が選んだのは、皇太子であった草壁ではなく大津だったのである。
結論として、このエピソードは、いわば「モテる大津皇子」と、「モテない草壁皇子」という対比を浮き彫りにしているのだ。
偉大な大王・天武天皇が選んだ「ただ一人の後継者」

画像:天武天皇 public domain
壬申の乱に勝利し、兄・天智天皇が推進した大化の改新事業を引き継いだ天武天皇。
しかし686年9月、その道半ばで波乱に富んだ生涯の幕を閉じた。
死の直前、天武は政治の大権を皇太子・草壁皇子と鵜野皇后に託している。
つまり、日本の天皇制を創設した偉大な大王である天武は、ただ一人の後継者として草壁を認めていたのだ。
そして、そのわずか1か月後、大津皇子の謀反が発覚した。
体格に恵まれ武勇にも優れ、度量が広く博学多才であったと伝わる大津であるが、鵜野皇后は、即刻処断する。
そのような状況のなか、草壁は百官を率いて何度も儀式を執り行った。
これは天武の後継者として、その地位を内外に示す重要な公務であった。
しかし数年後、その草壁も病に倒れ、まるで父・天武、そして弟・大津の後を追うかのように、ほどなくしてこの世を去ってしまうのである。
草壁皇子こそ時代に勝利した人物だった

画像 : 第42代・文武天皇 public domain
草壁皇子は、若くしてこの世を去った。
期待を集めながら天皇の位に就くことはなく、その生涯は、伝えられる人物像さながらに静かに幕を閉じている。
しかし、その死が草壁の人間としての敗北を意味したわけではなかった。
中継ぎとして即位し持統天皇となった鵜野皇后は、まさに草壁のために王権を守り抜き、やがて草壁の子・文武天皇へと皇位をつないでいく。
以後、その血統は、妃の阿閇皇女(元明天皇)、娘の元正天皇を経て、聖武天皇、孝謙天皇へと受け継がれ、奈良時代の王権中枢を担うことになる。
律令体制が確立し、仏教文化が花開いた日本の古代国家を動かしていったのは、まぎれもなく草壁の系統であった。
皮肉にも、『万葉集』が情熱をもって歌い上げた大津皇子は歴史の表舞台から姿を消した。
そして、正史にほとんど語られなかった草壁の血筋こそが、時代の主役となったのである。
悲劇は、人々の記憶に残りやすい。
だが、静かに勝利した者の足跡は、往々にして見過ごされてしまう。
飛鳥の西縁、真弓丘陵南東部の尾根の南斜面には、草壁の真陵と目される束明神古墳がポツンと佇んでいる。
いつ訪れても静寂が漂うその小高い丘で、樹々を渡る風に吹かれながら思うことがある。
それは、草壁皇子は、決して歴史的評価に敗れた皇子ではなかったということだ。
むしろその存在こそが、奈良王朝という日本史上きわめて重要な時代を生み出した礎であったのではないか。
後世において、決して声高に語られることがない皇子。
だが、その静かな歩みの先にこそ、王権の安定と国家の成熟があった。
草壁皇子は歴史の陰に隠れた敗者ではなく、時代を静かに勝ち取った勝者だったのではないだろうか。
※参考文献
千田稔著 『古代飛鳥を歩く』中公新書
文/高野晃彰 校正/草の実堂編集部
























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