朝ドラ「ばけばけ」で、ヘブンのよき理解者として描かれている吉沢亮さん演じる錦織友一。
史実でも錦織のモデル・西田千太郎は、ラフカディオ・ハーンが最も信頼していた友人であり、公私にわたって支えた協力者でもありました。
松江に着任以来、ハーンは西田と親密な交際を続けており、彼の献身と協力なくしては、後世に名を残すハーンの創作活動は成り立たなかったであろうといわれています。
今回は、公私ともに歩みを共にする西田とハーンの深い絆と別れについて見ていきたいと思います。
松江中学校を支えた若き英才、西田千太郎の尽力

画像 : 松江中学校 public domain
明治23年9月、ハーンは島根県尋常中学校と師範学校に英語教師として赴任し、熊本へ転居するまでの14カ月間在職しました。
着任当日、教職員と生徒への挨拶を済ませたハーンを、教頭の西田千太郎が得意の英語を活かして案内します。
まず中学校と師範学校の校舎を巡り、同僚へ紹介、その後学校の向かいにあった県庁に行き、籠手田知事と面会しました。
また赴任直後の授業では、西田はハーンと一緒に教室に入り、アシスタントを務めています。
彼は授業に必要なものをすべて教壇に準備してくれており、ハーンはスムーズに授業を行うことができたそうです。
こうして親身になって世話をしてくれる西田に、ハーンは全幅の信頼を寄せるようになります。
ハーンの机は教員室の入口の右側にあり、隣には西田の机がありました。
ハーンは広くて明るい居心地の良い師範学校の教員室よりも、西田と机を並べた薄汚い中学校の教員室を好んだそうです。
島根県尋常中学校は島根県下唯一の中学校であり、県の秀才が一堂に集まっている向学の精神みなぎる学校でした。
そのため外国人教師に対する期待も大きかったのですが、ハーンの前任者・タットルは「日本人は無知蒙昧な野蛮人だ」と豪語するような人物だったため、生徒や教師から不平不満が続出。
タットルはあっけなく解任されてしまいました。
こうした経緯があったにもかかわらず、西田は外国人教師の招聘を希望し、籠手田知事の決断でハーンの赴任が実現したのでした。
西田は教師の召喚や教授法の改善、経費の獲得など学校運営に尽力し、英語のみならず、歴史、地文、生理、植物、経済など、ほぼ全教科を教えていました。
学生からの人望は厚く、その評判は校長を上回るほどだったそうです。
西田千太郎は、晩年「松江聖人」の尊称でよばれるほどの好人物でした。
西田は最高のリテラリー・アシスタント

画像 : 「出雲大社絵図」1875年〈明治8年〉 public domain
ハーンが日本で教育や文学の仕事に打ち込むためには、そばで支えてくれる人の存在が欠かせませんでした。
松江でその役目を果たしたのは、公の場では西田千太郎、そして家庭では妻のセツでした。
来日したばかりの頃、ハーンが外出するときは、ほとんどいつも西田が付き添っていました。
明治23年9月の杵築大社の参拝では、西田の紹介状のおかげで、出雲大社の千家宮司から特別に昇殿を許されています。
日本人でもめったにないことであり、ハーンはその感動を、友人チェンバレン宛に送った手紙に「ヨーロッパ人は何人か参拝しているが、内殿に入れたのは自分が初めてだ」と書き残しています。
また、妻・セツの存在も、ハーンの活動を大きく支えました。
ただし、ハーンがセツに求めたのは、庶民の暮らしに根づいた風習や昔話、信仰などの素朴な話で、学術的な調査ではありませんでした。
英語が堪能だった西田は通訳として、丁寧な説明と細やかな気配りでハーンの研究を助けました。
彼はハーンのために全力で動いてくれる最高のリテラリー・アシスタントだったのです。
また西田にとっても、ハーンは魅力的な人物でした。
ハーンが英訳で『古事記』や『日本書紀』を読み通していることに驚き、作家としてのその才能をとても高く評価していました。
ハーンは西田の案内で旧跡を訪れたり、自宅で日本に関する文献を読みふけったりと、日本の文化にどんどんのめり込んでいきました。
来日後初めての著作を仕上げるため、日夜熱心に執筆に取り組み、やがて『知られぬ日本の面影』の構想が形になり始めました。
疑問があれば西田に何度も確認し、ときには自分の考えを堂々と語ります。
二人の白熱したやり取りは、まるで信頼し合う相棒のようでした。
松江時代の文学的な成果は、西田の助けがあってこそ生まれたものです。
ハーンも生涯その恩を忘れず、西田に深い敬意を抱き続けました。
そばを食べ酒を飲む 意気投合した二人

画像 : イメージ 井上安治「浅草橋夕景」
西田は、公の場だけでなく作家としての活動や私生活においても、ハーンが不自由を感じないよう常に支え続けていました。
しかし12月、幼い頃から身体の弱かった西田が病に倒れます。
冬の寒さは結核を患う彼の身体に容赦なく、喘息や吐き気に苦しみ、ほとんど床から起き上がれない日々が続きました。
ハーンは毎日のように半里の道を歩いて見舞いに訪れ、みかんやラムネを手に励まし続けました。
年が明けると、今度はハーンが風邪を引き、西田が見舞いに訪れます。
この頃、西田は校長心得となり、中学校の運営を任されていました。
病身には重い役目でしたが、誠実な彼は真摯に務めを果たします。
二人は布団の上で短い会話を交わし、松江の厳しい寒さや授業に出られない不安を語り合いました。
西田は自分の体調も顧みず、医者を手配し、連日のようにハーンを見舞いました。
やがて二人は共に回復し、春の訪れとともに松江の町を散策する姿があちこちで見られるようになります。
松江城や円城寺を歩き、互いの家で酒を酌み交わす時間は、二人にとって何よりの楽しみでした。
4月3日、松江大橋の開通式の日には、西田や同僚の中山とともに自宅から式典を眺め、渡り初めにも参加しました。
町は人であふれ、三人は相撲見物にも出かけ、松江の祭り気分を満喫します。
さらに4月5日には、行楽と取材をかねて松江郊外の大庭の神社めぐりへ。
人力車で草深い道を進んだ後、蕎麦屋で休み、神魂(かもす)神社や八重垣神社を訪ね歩きました。
この取材は後に『知られぬ日本の面影』の一章として結実します。
4月末には、蕎麦屋で酒を酌み交わして芝居見物にも出かけるなど、二人は意気投合し、互いを深く尊敬し合う親友となっていきました。
松江での穏やかな日々が、二人の絆をより強くしたのです。
いつまでもハーンの心の中に生き続けた西田千太郎

画像 : 同行の画家が描いた日本へ出発した当時の小泉八雲 public domain
西田千太郎の人生は、常に結核との闘いと隣り合わせでした。
松江に赴任したばかりの頃、ハーンは「教育における想像力の価値」という講演を行い、その通訳を務めたのが西田でした。
西田は結核による喀血が三度も起きる最悪の体調だったのですが、止血剤で押さえ込み、ハーンの言葉を一字一句逃さず訳し続けたといいます。
彼の献身ぶりは、周囲の胸を打つほどでした。
ハーンが松江を離れる日、埠頭には多くの市民や学生が集まりました。
しかし、その中に西田の姿はありません。
彼は重い結核で、二カ月も床に伏していたのです。
代わりに父・平兵衛が美しい記念品と丁重な送別の手紙を携えて、見送りに訪れました。
西田は日記に悔しさを綴っています。
「十一月十五日(快晴) ヘルン氏熊本ニ向ヒ出発ス。・・・(中略)・・・予ガ病気ノ為メニ世話ヲナシ得ザリシハ氏ガ最モ哀シミタル処ニテ予ノ最モ遺憾トセル処ナリ。」
西田千太郎著『西田千太郎日記』より
明治30年3月15日、西田は34歳という若さで逝きました。
訃報を聞いたハーンは、西田の命を奪った病を憎み、
「あのような善い人です。あのような病気参ります、ですから世界むごいです、なぜ悪き人に悪き病気参りません」
小泉セツ著『思ひ出の記』より
と嘆きました。
後に早稲田大学で教えていた頃には、学長の姿がどこか西田に似ていると感じ、それだけで大学が好きになったとも語りました。
亡くなった後も、
「今日途中で、西田さんの後ろ姿みました、私の車急がせました、あの人、西田さんそっくりでした」
小泉セツ著『思ひ出の記』より
と懐かしそうに話すほど、ハーンの心のなかの西田の存在は大きなものだったのでした。
もし西田がいなければ、ハーンの作家としての大きな飛躍もなかったでしょう。
ハーンは心から西田を信頼し、敬愛の念を込めて著書『東の国から』を彼に献呈しました。
六年半の交友の中で西田宛に送った手紙は105通にも及びます。
ハーンにとって最も親しい友であり、かけがえのない助言者だった西田千太郎は、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)を語る上で、決して忘れることのできない人物なのです。
参考文献
田部隆次『小泉八雲』中央公論新社
小泉セツ『思ひ出の記』ハーベスト出版
松江北高等学校百年史編集委員会編『松江北高等学校百年史』島根県立松江北高等学校
文 / 深山みどり 校正 / 草の実堂編集部
























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