
画像.江戸城 public domain
2026年は、新選組を題材にしたエンタメ作品が相次いでいます。
3月には声優陣による朗読劇が上演され、TBSでは実写ドラマも放送予定です。さらに、人気ゲームを原作とする『薄桜鬼』の舞台も10月に予定されています。
幕末に活動した新選組は、令和の今もなお高い人気を保っています。
その新選組を医療面から支えた人物の1人が、松本良順(まつもと りょうじゅん)です。
江戸幕府に仕え、のちに初代陸軍軍医総監となった医師でした。
今回は、幕末から明治にかけて日本の医療と衛生に大きな足跡を残した松本良順をご紹介します。
松本良順の出自

画像:湘南の海イメージ photoAC
良順は1832年7月13日、江戸の麻布我善坊に生まれました。父は佐倉藩の藩医・佐藤泰然で、のちに順天堂の礎を築いた人物として知られます。
良順は父のもとで蘭方医学を学び、さらに幕末を代表する蘭方医の坪井信道や林洞海らにも教えを受けました。
1849年の17歳ごろ、幕府奥医師の家である松本家に入り、松本良甫の養子となります。
その後、幕府医官として歩み始めた良順にとって、大きな転機となったのが1857年の長崎行きでした。
長崎海軍伝習所にはオランダ軍医ポンペ・ファン・メーデルフォールトが招かれており、良順は彼のもとで西洋医学を本格的に学ぶことになります。

画像 : ポンペを囲む医学生、前列ポンペの左は松本良順 public domain
幕府の医師には漢方を重んじる者が多く、蘭方医学には強い反発もありました。そうした空気の中で、良順はあえて長崎へ赴いたのです。
長崎において良順はポンペの講義を受けるだけでなく、その内容をほかの日本人医師たちに伝える役割も担いました。
高い理解力と語学力を備えた良順は、ポンペの信頼を集め、近代的な西洋医学教育が日本に根づく過程で重要な役割を果たします。
こうして身につけた知識と経験は、のちの良順の活動の土台となりました。
幕末から明治にかけて衛生観念の普及にも取り組み、牛乳の摂取や海水浴の効用を説きながら、人々の暮らしの中に近代的な健康観を根づかせていったのです。
新選組と交流があった?

画像 : 近藤勇 public domain
幕末の政局が緊迫する中、良順も幕府方の医師として京都情勢と無縁ではいられなくなりました。
そうした中で接点を持ったのが、新選組でした。
良順が新選組と関わるようになった背景には、局長・近藤勇との交流がありました。
京都で近藤と面会した良順は、その後、新選組隊士の診療にもあたるようになったのです。
西本願寺の屯所を訪れた良順は、隊士たちの診療だけでなく、その生活環境にも目を向けます。
屯所には病に伏している者も多く、部屋の衛生状態もひどいものでした。
良順はこの状況を見て、病人を集めて看護を付けることや、病室や浴室を整えること、さらに豚肉を食べるなど食事の改善を勧めたのです。これは生活環境や栄養こそが、健康に直結すると考えていたためでした。
良順は幕府への忠義が厚く、やがて幕府医学所頭取も務めます。
しかし1866年、第二次長州征討のさなか、大坂城で14代将軍・徳川家茂が死去してしまいました。
良順はその治療にもあたっていましたが、回復には至りませんでした。
1868年、鳥羽・伏見の戦いをきっかけに戊辰戦争が始まると、新選組も旧幕府側として各地を転戦します。
近藤勇は甲陽鎮撫隊を率いて出陣しましたが敗れ、その後に捕縛され、慶応4年4月25日、板橋で処刑されました。
良順は、戦傷者の救護に力を尽くしていました。
会津では野戦病院の設置に関わり、ポンペから学んだ西洋医学をもとに治療を行い「負傷兵の回復には栄養が欠かせない」と、牛肉を用いた滋養の重要性も説いています。
その後、良順は仙台へ移ります。
榎本武揚らが蝦夷地へ向かう中、良順はこれに加わらず、仙台で降伏しました。
新撰組の墓を建てようとした永倉新八に協力

画像 : 【新選組】近藤勇処刑瓦版 publicdomain
新選組隊士の供養を願った永倉新八は、近藤勇や土方歳三をはじめとする仲間たちの墓碑建立を進めていました。
その際に協力したのが、赦免後に明治政府へ出仕し、のちに初代陸軍軍医総監となった良順でした。
良順は旧幕府側に立って戦った人々への世間の冷淡な視線を嘆き、彼らの死を悼む思いを抱いていました。
それは良順が残した二行書にも表れています。
世事は獺(カワウソ)のごとく龍を嘲り 人情は狐(きつね)のごとく虎を仮る
1876年、隊士たちの墓碑は建立されました。
現在も板橋駅東口近くに残り、側面には新選組に関わった110人の名が刻まれており、新選組ゆかりの地として多くの人が訪れています。
幕末には幕府方の医師として働き、明治に入ってからは衛生観念の普及にも力を尽くした松本良順は、1907年3月12日、神奈川県大磯町で没しました。享年75。
参考文献:
『歴史を歩く 深掘り神奈川』、泉秀樹、PHP文庫、2016年 他
文/国木ちさと 校正/草の実堂編集部

























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