西洋史

「夫は精神疾患、愛人は公開処刑」悲劇のデンマーク王妃カロリーネ・マティルデ

画像 : デンマーク王妃となったカロリーネ・マティルデの肖像(1767年)Catherine Read Public domain

18世紀のヨーロッパにおいて、王室の政略結婚は国家間の同盟を強固にするための重要な手段でした。

しかし、その背後には個人の感情や人権が顧みられない残酷な現実が潜んでいることも少なくありませんでした。

イギリス国王ジョージ3世の妹であるカロリーネ・マティルデが、デンマーク王クリスチャン7世のもとへ嫁いだ事例は、その最も悲劇的な一例として歴史に刻まれています。

今回は、北欧の宮廷を揺るがした悲劇の婚姻をたどってみました。

ハノーヴァー家からの出発とコペンハーゲンの冷遇

画像 : 3歳頃のカロリーネ・マティルデ(1754年)Jean-Étienne Liotard Public domain

1751年、ロンドンのレスター・ハウスで生まれたカロリーネ・マティルデは、イギリス国王ジョージ3世の末妹として、自由で快活な幼少期を過ごしました。

彼女は音楽や語学に秀でた聡明な少女でしたが、15歳という若さで政治の道具としてデンマークへ送られることになります。

1766年、彼女は従兄にあたるデンマーク王クリスチャン7世と結婚したのです。

画像:クリスチャン7世 public domain

当時のデンマークは北欧の強国であり、イギリスはこの結婚を通じて北海およびバルト海の制海権を確固たるものにしようと目論んでいました。

しかし、コペンハーゲンのクリスチャンボー城で彼女を待ち受けていたのは、幸福な新婚生活ではありませんでした。

夫であるクリスチャン7世は、即位直後から精神的な不安定さを露呈していたのです。
彼は極度の情緒不安定に陥り、夜な夜な街に繰り出しては暴力沙汰を起こし、廷臣たちを困惑させていました。

現代の医学的見地からは統合失調症であった可能性が指摘されていますが、当時の宮廷では単なる放蕩や性格の欠陥として片付けられがちでした。

カロリーネは言葉も通じない異国の宮廷で、夫クリスチャン7世から冷淡に扱われ、愛情を得られぬまま孤立していきました。

1768年に長男フレデリク(後のフレデリク6世)を出産したものの夫婦関係は改善せず、王は国外旅行へと逃避がちになり、彼女は閉鎖的な宮廷の中で孤独な日々を送ったのです。

当時の書簡からは、自身の境遇への絶望と故郷イギリスへの強い思慕が読み取れます。

侍医ストルーエンセの台頭と啓蒙改革の断行

画像:ヨハン・フリードリヒ・ストルーエンセ public domain

クリスチャン7世が1768年から1769年にかけて行ったヨーロッパ周遊旅行中、彼の主治医として同行したのが、ドイツ人の医師ヨハン・フリードリヒ・ストルーエンセでした。

ストルーエンセは単なる医師ではなく、熱心な啓蒙思想の信奉者でした。

彼は旅を通じて王の信頼を完全に勝ち取り、王の精神的混乱を鎮める唯一の人物として、宮廷内での地位を急速に高めていきました。

帰国後、ストルーエンセは王妃であるカロリーネの診察も任されるようになります。

当初、彼女はストルーエンセを警戒していましたが、彼の知的な会話と誠実な態度、そして何より彼女の孤独を理解しようとする姿勢に次第に心を許していきました。

やがて二人は深い信頼関係で結ばれ、道ならぬ恋へと発展していったのです。

1770年頃には、ストルーエンセは王の威光を背景に、事実上の摂政としてデンマークの国政を掌握するに至ります。

ストルーエンセが断行した改革は、当時のヨーロッパにおいても極めて進歩的なものでした。

彼は内閣制度を廃止して自身の命令を直接法律とする仕組みを構築し、検閲の廃止、拷問の禁止、貴族特権の制限、さらにはコペンハーゲンの衛生環境の改善など、1000以上の政令を短期間に発布しました。

しかし、これらの急進的な改革は、それまで権力を握っていた伝統的な貴族階級の激しい反発を招きました。

また、ドイツ人である彼がデンマーク語を解さず、公用語をドイツ語に変えようとしたことも、国民の反感を買う要因となりました。

王妃との不適切な関係も公然の秘密となり、反対派はこれを絶好の攻撃材料として利用し始めました。

宮廷クーデターと愛人の公開処刑

画像:1772年の風刺画。左には監獄に入れられたストルーエンセ、中央には乳母に抱かれたルイーセ王女、右には男装して乗馬する王妃が描かれている。public domain

1771年、王妃カロリーネは次女ルイーセ・アウグスタを出産します。

しかし、宮廷内では「この子供の父親は王ではなく、ストルーエンセだ」という噂が広まりました。

反対派の中心人物は、クリスチャン7世の継母であるユリアーネ・マリー太后でした。

彼女は自身の息子であるフレデリク王子(クリスチャン7世の異母弟)を王位に就けるべく、ストルーエンセと王妃を排除する機会を慎重にうかがっていたのです。

1772年1月16日の夜、仮面舞踏会が終わった直後、ユリアーネらの一派はついに行動に出ました。

精神的に衰弱していたクリスチャン7世の寝室に押し入り、ストルーエンセと王妃が国を滅ぼそうとしていると説得し、逮捕状に署名させたのです。

ストルーエンセは即座に捕らえられ、カステレット要塞に投獄されました。
カロリーネもまた、幼い子供たちから引き離され、クロンボー城へと連行されます。

その後のストルーエンセに対する裁判は苛烈を極めました。

彼は王妃との密通を認め、さらに大逆罪の容疑で告発され、同年4月28日、公開処刑が決定します。
右手を切り落とされた後、斬首され、その遺体は四つ裂きにされて晒されるという、凄惨な最期を遂げたのです。

一方、カロリーネについてはイギリス王室の介入もあり死刑こそ免れましたが、王との離婚が成立し、デンマーク王室から追放されることが決定しました。

彼女は二人の子供との再会を許されることなく、デンマークを後にしました。

追放の地、ツェレでの早すぎる死

画像:カロリーネ・マティルデ public domain

デンマークを追放されたカロリーネは、兄ジョージ3世が用意したハノーヴァー選帝侯領のツェレ城に身を寄せることになりました。

20代前半という若さで、彼女は王妃としての地位も、愛する人も、そして子供たちまでも失ったのです。

ツェレでの生活自体は穏やかなものでした。
慈善活動に精を出し、現地の住民から慕われるようになりますが、彼女の心は常にデンマークに残してきた子供たちのもとにありました。

「いつの日か息子フレデリクが権力を握り、自分をデンマークへ呼び戻してくれる」そんな日を夢見ていたとも言われています。

実際、彼女を支持する勢力による復権計画も密かに進められていましたが、運命はそれを許しませんでした。

1775年5月10日、カロリーネは猩紅熱(しょうこうねつ)を発症し、わずか23歳でこの世を去ります。

亡くなる直前、彼女は自身の無実と子供たちへの愛を訴える手紙を残したと伝えられています。

画像:フレデリク6世 public domain

彼女の死後、ストルーエンセが進めた改革の多くは一度撤回されました。しかし、その思想の火は完全に消えたわけではありませんでした。

1784年、息子フレデリク6世が成人して摂政となると、ユリアーネら守旧派は政権から退き、啓蒙主義的な改革が再び進められていきます。これはデンマークが近代へ向かう重要な転換点となりました。

カロリーネ・マティルデの遺体は、ツェレの市教会にあるハノーヴァー家の墓所に葬られ、現在もそこに眠っています。

彼女が最後まで抱き続けた子供たちへの思いは、のちにフレデリク6世が築いた治世の中に、わずかな形で報われたのかもしれません。

参考文献:『デンマークの歴史』/橋本淳(編) 他
文 / 草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
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