
画像:(左)大関和 (右)鈴木雅 public domain
桜満開の便りが届き始めた3月末から、新しいNHK朝の連続テレビ小説『風、薫る』が始まりました。
舞台となるのは文明開化が進む明治時代で、日本で最も早い時期に正規の訓練を受けたプロの看護婦、いわゆる「トレインド・ナース」となった二人の女性が、看護黎明期を切り拓いていく姿が描かれます。
モデルとなっているのは、大関和(おおぜきちか)と鈴木雅(すずきまさ)。
まだ近代的な意味での「看護婦」という職業が確立しておらず、「男は仕事、女は家庭」という価値観が強く残っていた時代でした。看護という概念自体も十分に浸透していませんでした。
そうした中で、自ら道を切り開いていった二人を軸に描かれるのが、本作のダブルヒロインの物語です。
新しい知識を学び、職業として成立させていく道のりは決して平坦ではなく、看護婦という仕事そのものが「賤業」と見なされ、偏見や差別にさらされることもありました。
今回は、そんな「看護婦」という職業がどのように誕生し、どのような過程を経て社会に受け入れられていったのか、その歴史と背景をたどっていきます。
なお、現代では「看護師」と呼ばれていますが、ここでは時代背景に合わせて「看護婦」と表記します。
西洋医学の導入とともに「看護婦」の存在が不可欠に

画像:「野戦病院エ行啓之図 日清戦争」明治27年頃 小林清親 public domain
江戸時代、病人や怪我人が出た場合、医師の往診を受けることはあっても、実際の看護は家族や奉公人が担うのが一般的でした。
医師の指示や過去の経験を頼りに、いわば素人が手探りで看病していたのです。
当時は病院と呼べるような施設もほとんどなく、出産のための産屋を除けば、江戸中期に徳川吉宗が設けた無料医療施設「小石川養生所」が知られる程度でした。
幕末の文久元年(1861)、オランダから派遣された海軍軍医ポンペの建議を受けて「長崎養生所(小島養生所)」が開設されました。
鎖国下でも来航が認められていたオランダの影響のもと、日本で初めて現代に近い西洋式の病院が誕生したのです。
これを契機に明治維新後には西洋医学が急速に広まり、病院という施設が各地に整えられていきました。
治療や手術、消毒といった医療の体系も整備されるにつれ、現場では医師だけでは担いきれない多くの実務が生まれていきます。
包帯の交換や衛生管理、食事や排泄の世話、さらには感染症の予防など、患者の療養生活を支える役割はもはや専門的な知識と技術を必要とするものでした。
こうして医療を支える新たな担い手として、「看護婦」という存在が不可欠なものとなっていったのです。
看護婦を養成する施設が誕生

画像:慶應義塾看護婦養成所 wiki c
public domain
公益社団法人日本看護協会の資料によると、日本における看護養成所は、
明治17年(1884):有志共立東京病院看護婦教育所(東京慈恵医院看護婦教育所)
明治19年(1886):京都看病婦学校、桜井女学校付属看護婦養成所
明治20年(1887):東京帝国大学医科大学付属看護婦講習科
明治23年(1890):日本赤十字社救護看護婦養成
と次々に誕生。
『風、薫る』の主人公のモデルとなった大関和と鈴木雅も、桜井女学校付属看護婦養成所の開設とともに入学したとされています。
ただし当時はまだ制度そのものが整備途上にあり、医師が直接指導にあたったり、ミッション系医療機関と深く結びついたりするなど、模索の中で教育が行われていました。
そうした試行錯誤の積み重ねこそが、日本における看護専門職の出発点となっていったのです。
また、この頃の看護婦は現在のように病院に常勤する形ではなく、必要に応じて病院や患者の自宅へ赴く「派出看護」が主流でした。
現場に出て実践を重ねながら経験を積むことが、当時の看護婦にとって重要な役割でもあったのです。
『声なきに聞き、形なきに見て』の看護学生に感動

画像:小説『看護婦』の挿絵。明治時代(武内桂舟)public domain
明治22年(1889)、外務大臣だった大隈重信が爆弾事件によって右足を失う大怪我を負った際、自宅療養にあたって東京慈恵医院看護婦教育所の看護婦生徒が派遣されました。
彼女たちは献身的に看護にあたり、その働きに深く感銘を受けた大隈夫人は「病者の意を汲んで、声なきに聞き、形なきに見て、その一挙一動が万事に行き届いている」という感謝の言葉を手紙に綴り、教育所に送ったと伝えられています。
当時の看護婦養成所では制服も定められており、「式服」と「平常服」が使い分けられていました。
筒袖の上着に長いスカートを合わせた平常服や、詰襟で肩にパッドを入れた上着に八枚はぎのスカートを合わせた式服など、現在のように動きやすさを重視したものではなく、どこか儀礼的な趣を感じさせる装いだったことがうかがえます。
やがて昭和期に入ると、日本赤十字社は従軍看護婦を戦場へ派遣するようになります。
昭和12年(1937)に勃発した日中戦争では、女性看護婦が各地に派遣され、その際の制服として採用されたのが、真っ白なワンピース型の白衣でした。
こうした活動を通じて、白衣をまとった看護婦の姿は広く知られるようになり、やがて一般にもそのイメージが定着していったのです。
「賎業」と差別された看護婦

画像:Field Hospital 梶田半古 public domain
もっとも、こうした看護婦の仕事が当初から社会的に高く評価されていたわけではありません。
養成所では主に、看病の要旨・薬餌用法・包帯術・消毒法・衛生学・解剖学などの医学的な知識に加え、患者への接し方や礼儀作法まで厳しく教えられ、「近代的な働く女性」を育てる場としての役割も担っていましたが、世間の目はむしろ冷ややかなものでした。
人の命を守る仕事でありながら、「金のために汚い仕事を引き受ける賎業」と見なされ、差別の対象となることも少なくなかったのです。
その背景には、「女性は家庭を守るべきだ」という当時の価値観がありましたが、理由はそれだけではありません。
看護婦は血液や排泄物、膿などに触れ、ときには死体とも向き合う仕事であり、感染するだけでなく命を失うこともありました。
そうした行為そのものが、当時の社会では忌避されるものと受け止められていた側面もありました。
もともと看病は家族が担うものとされていたため、女性が赤の他人の身体に触れるという行為は受け入れがたく、「嫁入り前の娘が男性の身体に触れるのか」「夜通し男性医師と同じ場にいるのか」といった視線が向けられていたのです。
従軍看護婦や赤十字看護婦が国家的英雄に

画像:日露戦争中の日本の従軍看護婦 wiki c CC BY 2.0
こうした差別的な見方が大きく変わる契機となったのが、日清・日露戦争でした。
戦場や後方で活動した従軍看護婦や赤十字看護婦の献身的な働きが広く報じられるようになると、彼女たちは次第に国家的な英雄として語られるようになっていきます。
とくに日露戦争では、2160名もの女性看護婦が従軍しました。
彼女たちの活動は当時の雑誌などで繰り返し紹介され、社会の注目を集めていきます。
さらに、過酷な任務の中で看護にあたり、勤務地で病気により命を落とした者は39名にのぼりました。
こうした事実が広く知られるにつれて、看護婦という職業に対する社会の認識は、大きく変わっていったのです。
さらに大正時代に入ると、女性の社会進出が進み、医療の分野でも看護婦に加えて薬剤師や助産婦など、専門的な知識と技術を持つ職業が広がっていきました。
最後に
大関和は看護教育の充実や待遇改善に尽力し、「日本のナイチンゲール」とも称される存在となりました。
一方の鈴木雅も、看護派出事業の発展や衛生知識の普及に貢献し、日本の近代看護の基盤づくりに大きな役割を果たしています。
ドラマ『風、薫る』のキャッチフレーズは「道をはずれた人から、いつも道は生まれた」。
型破りな二人をモデルにした物語を通して、看護という職業がどのように育まれてきたのかを、改めて実感できる機会になるかもしれません。
コロナ禍の際には、医療従事者への差別や偏見が問題となりました。
そうした現代の出来事とも重ねながら、この仕事の重みと価値について、あらためて考えるきっかけになればと思います。
大関和と鈴木雅、その歩みについては、また改めて詳しくご紹介していきます。
参考:日本看護教会『戦前(明治~大正)の看護教科書』
東京慈恵会医学大学「ナイチンゲールの教えを引き継いで」
『明治のナイチンゲール 大関和物語』田中ひかる
文 / 桃配伝子 校正 / 草の実堂編集部

















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