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源頼朝の最後の直系男子「貞暁」 〜北条政子の魔の手から逃れるため左目を潰す

真言宗の聖地・高野山に住した僧侶

画像:空海の肖像(真如様大師) wiki c

画像:空海の肖像(真如様大師) wiki c

真言密教の根本道場・高野山は、平安時代のはじめに弘法大師空海によって開かれた日本仏教の聖地です。

周囲を1,000m級の山々に囲まれた、標高約800mの山上盆地には、真言宗の総本山・金剛峯寺を中心にたくさんの塔頭寺院などがあり、一大宗教都市を構成しています。

山内の多くの部分が「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録されたこともあり、真言宗の信者だけでなく、多くの人々が国内外から訪れる観光地としても有名です。

今回は鎌倉時代初期、そんな高野山に住した一人の僧侶に焦点を当ててみました。

貞暁が鎌倉から京都に逃れた理由

画像:源頼朝像(中村不折画)

画像:源頼朝像(中村不折画)

僧の名は、貞暁(じょうぎょう)。1186(文治2)年3月18日、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の三男として生を受けました。

貞暁が高野山で暮らした場所は、多くの人々で賑わう金剛峯寺から、北へわずか数100mの一心院谷と呼ばれる場所。ここは、高野七口の一つ不動坂からほぼ南東に下る一帯で、いつも静寂に包まれています。

では、なぜこの地に頼朝の三男が住んでいたのでしょうか。それは、頼朝の正室北条政子から逃れるためでした。

貞暁の母・大進局は、鎌倉の大蔵御所に侍女として出仕していた時に頼朝に見染められ懐妊しました。彼女の父は、奥州伊達氏の祖で御家人の常陸入道念西(ひたちにゅうどうねんさい)とされます。

生来の嫉妬深さにあわせ、北条家の血を引かない男子の存在を断固として許さないという政子にとって、貞暁の存在は許しがたいものであったのです。

画像 : 北条政子。菊池容斎『前賢故実』

1192(建久3)年3月、頼朝は征夷大将軍に任ぜられ、鎌倉幕府を開府。そして8月、政子は第3子の実朝を出産します。

頼朝の権力増大と実朝の誕生は、ますます貞暁の身に危機を及ぼしました。

政子にとって、武家の棟梁たる頼朝の後嗣は、北条の血筋のみという思いがさらに増したのは間違いなく、それ故に大進局・貞暁母子に対する怒りと警戒心は増すばかりであったのでしょう。

貞暁の身に危険が差し迫っていたことを察した頼朝は、彼が7歳になると一振りの太刀を与え、鎌倉から逃します。

そして、貞暁は上洛のうえ、仁和寺勝宝院にて仏道修行に励むことになるのです。

次々と滅びゆく源氏直系男子たち

画像:仁和寺仁王門(撮影:高野晃彰)

画像:仁和寺仁王門(撮影:高野晃彰)

1192(建久3)年6月15日、貞暁は京都仁和寺の勝宝院に入りました。勝宝院は頼朝の義弟・一条能保(いちじょうよしやす)の養子である隆暁法印(りゅうぎょうほういん)が住職を務めており、その弟子となったのです。

能保は、頼朝の同母姉妹である坊門姫を妻とする公家で、頼朝から格別な信用を得ており、朝廷と幕府双方に広い人脈をもっていた人物。また、隆暁は門跡寺院の住職であるとともに、後に東寺の副住職も務めたトップクラスの高僧でした。

そんな二人に頼朝は貞暁の身を託したのです。このことからも、貞暁に対する想いが察せられるでしょう。

貞暁は仁和寺で隆暁のもと、仏道修行に励みます。しかし、そうした間にも鎌倉では、源氏一門が骨肉の争いの末、次々と命を落としていきました。

画像:源範頼像(横浜市金沢区太寧寺蔵)wiki c

画像:源範頼像(横浜市金沢区太寧寺蔵)wiki c

1193(建久4)年5月、頼朝の弟として幕府内で重きをなしていた源範頼(みなもとののりより)が失脚の末、配流先の修善寺で誅殺。

1199(建久10)年1月13日、頼朝が、波乱に満ちたその生涯を閉じます。

1203(建仁3)年5月、頼朝の弟で唯一生き残っていた阿野全成(あのぜんじょう)が、政子の長子・2代将軍頼家から謀反の罪で誅殺されました。

その頼家も同年11月、政子の父・北条時政により伊豆修善寺へ幽閉の後、殺害されてしまいます。

頼家の後は、政子の3子・実朝が継ぎ3代将軍に就任。しかし、生来の脆弱さからか、正室信子との間には、子供が誕生する気配はありませんでした。

こうした状況の中、政子の心情に大きな変化が起こります。それは「将軍職にはもはや北条の血はいらない。だが、幕府は北条家のみで支えていく」という固い決意であったのです。

実朝は時の絶対権力者・後鳥羽上皇と良好な関係を築いていました。もし、実朝に男子が誕生しない場合は、後鳥羽の皇子を将軍に迎える画策を始めていたのです。

北条政子の魔の手が貞暁に迫る

画像:高野山一心院谷入口(撮影:高野晃彰)

画像:高野山一心院谷入口(撮影:高野晃彰)

1208(承元2)年、貞暁は突然、高野山にその活動の場を移します。高野山一心院谷にある一心院の住持・行勝上人のもとに移ったのです。

貞暁の一心院谷入りの謎を解く鍵が、高野山に語り継がれていました。

それは、「貞暁は北条義時に執拗に命を狙われていた。義時の討手が迫ったので、急いで高野山一心院に逃れた」という伝承です。

政子は、執権である弟・義時と謀り、京都にいる貞暁の誅殺を考えていたのかもしれません。その計画を察知した貞暁が、難を避けるために、仁和寺と縁のあった高野山一心院に身を移したのです。

画像:源実朝像(『國文学名家肖像集』収録)wiki c

画像:源実朝像(『國文学名家肖像集』収録)wiki c

では、なぜ政子は貞暁を亡き者にしようとしたのか。それは、当時の実朝の健康悪化にあったと考えられます。

この頃、実朝は頻繁に重い病に見舞われ、時に命に係わることもあったのです。そしてそれは、次の将軍職をめぐり血生臭い抗争を引き起こし、貞暁もその渦中に巻き込まれていました。

貞暁の母・大進局の実家である伊達氏2代目の伊達為重は、実朝が死去した場合に、貞暁を将軍職に付けようと密かに画策したと伝わります。しかし、計画は露呈し、伊達一族は散り散りになりました。

政子は、実朝にもしものことがあった時を想定し、貞暁という憂いを断つつもりでいたのではないでしょうか。

今も残る貞暁建立の源氏三代五輪塔

画像:高野山一心院谷(撮影:高野晃彰)

画像:高野山一心院谷(撮影:高野晃彰)

貞暁は、高野山一心院谷で、一心不乱に仏道修行を続けます。1217(建保)年5月7日、行勝上人が87歳でこの世を去ると、貞暁は一心院を引き継ぎ、第2代院主となりました。

1218(健保6)年2月4日、政子は2度目の上洛を行います。その目的は実朝の後継者として後鳥羽上皇の皇子頼仁親王を所望することで、上皇の乳母・藤原兼子と会談を重ね、その内諾を得たのです。

そして政子は、高野山の貞暁に面会を命じます。

貞暁は、その強い要望に抗えず、面会は、山麓天野に鎮座する高野山の守護神・丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)で行われました。

画像:丹生都比売神社(提供:丹生都比売神社)

画像:丹生都比売神社(提供:丹生都比売神社)

貞暁は、仁和寺から知らされる情報で政子上洛の目的を把握していたのでしょう。将軍として後鳥羽上皇皇子を望んでいること。その後援者として、北条の権力を盤石にしたいことを理解していたに違いありません。

面会において政子は、「もはや頼朝公の男子は、わずかになってしまった。実朝の後は、貴僧を鎌倉将軍として迎えたい」と誘いをかけます。

しかし貞暁が、その誘いにのり将軍職を望むようならば、それは政子の意に反することになります。それがどのような結果をもたらすかは、はっきりしていました。

貞暁は、政子の言葉を聞き終わるいなや、頼朝から授けられた太刀を突然抜くと、止めるまもなく左目に突き刺し眼球を抉ったのです。

そして、「このようになったからには、もはや武門としての務めは果たせません。それでも拙僧を将軍にというならば、もう片方の目も抉りましょう。」と政子に迫りました。

政子は、貞暁の凄まじい決意を目の当たりにし、感服すると同時に心から詫びたといいます。そして貞暁に僧として生きて、源氏・北条一門の菩提を弔うことを依頼したのです。

この面会からわずか1年後の1219(建保7)年1月27日、実朝は頼家の子・公暁に暗殺されます。その公暁も殺害され、源氏直系男子の血筋は、貞暁のみとなりました。

晩年の政子は、貞暁に深く帰依したと伝わります。

1223(貞応2)年、貞暁は政子の援助で五坊寂静院を建て、幕府も貞暁を頼朝の血を引く「鎌倉法印」として崇敬しました。

画像:西室院の源氏三代五輪塔(撮影:高野晃彰)

画像:西室院の源氏三代五輪塔(撮影:高野晃彰)

貞暁は、将軍家3代の菩提を弔うために三基の五輪塔を建て、46歳でこの世を去るまで、源氏一門の鎮魂のために生涯をおくりました。

三基の五輪塔は「源氏三代五輪塔」として、五坊寂静院の向かいにある、西室院境内の一画に現存しています。

江戸時代の享保年間(1716~1736年)の『高野山古絵図』(西室院蔵)には四基の五輪塔が描かれ、頼朝公墓・頼家公墓・実朝公墓・二位尼墓(北条政子墓)と記されていますが、二位尼墓だけは所在が不明です。

三基の五輪塔はその形態から、鎌倉初期の同一期に建てられたものとされ、貞暁が建てた五輪塔と考えて差し支えないでしょう。

画像:高野山別格本山西室院(撮影:高野晃彰)

画像:高野山別格本山西室院(撮影:高野晃彰)

いま、一心院谷を訪れると、多くの人々で賑わう高野山とは無縁のような静寂さに包まれています。

貞暁が、その波乱に満ちた人生の最後を心静かに過ごした場所として、これほどふさわしいところはないでしょう。

読者の皆様も、高野山に行かれた際は、ぜひ一心院谷を訪れてみてはいかがでしょうか。

そこには、源頼朝最後の男系男子をめぐる隠れた歴史が現在も息づいています。

※取材協力
高野山別格本山西室院 公式サイト:https://koyasan697.jp/

 

高野晃彰

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高野晃彰(たかのてるあき)
編集プロダクション「ベストフィールズ」とデザインワークス「デザインスタジオタカノ」の代表。歴史・文化・旅行・鉄道・グルメ・ペットからスポーツ・ファッション・経済まで幅広い分野での執筆・撮影などを行う。また関西の歴史を深堀する「京都歴史文化研究会」「大阪歴史文化研究会」を主宰する。

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