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豊臣秀次は本当に冤罪か? 聚楽第外堀の拡張が示す謀反計画の可能性【秀次切腹事件】

造営からわずか10年で、痕跡をとどめぬほど徹底的に破却された聚楽第(じゅらくだい)。
豊臣政権の京都における政庁でありながら、その実像はいまなお謎に包まれている。

その破却理由の一つとして関白・豊臣秀次とその一族が粛清された、いわゆる「秀次事件」に関係すると考えられてきた。
この事件は「秀頼誕生によって立場を失った秀次に、無実の罪が着せられた」というのが一つの通説である。

しかし近年、京都大学防災研究所による振動波レーダー探査が、聚楽第の想像を超える構造を明らかにした。
そこから浮かび上がるのは、これまでとはまったく異なる聚楽第と秀次像であった。

今回は最新調査が示すもう一つの可能性から、秀次事件の真相に迫りたい。

聚楽第拡張における秀次の真意とは

画像:『聚楽第図屏風』部分(三井記念美術館所蔵) public domain

豊臣秀吉により完全に破却された聚楽第の遺構は、ほとんどと言ってもよいほど残っていない。

しかし、京都大学防災研究所の振動波を用いたレーダー探査により、天守や堀の位置など、その全体像がかなりの精度で復元可能となった。

ちなみにこのレーダー探査は発掘を行わず、地面を叩いた人工震動の伝わり方で地盤の状態を調べる表面波探査だ。

この調査で分かったことは、聚楽第の範囲はこれまで知られていたよりも1.6倍の広さになるということ。
本丸の北西角の推定地からは、天守閣とみられる固い地盤の高まりが検出され、城への出入り口である「虎口」とみられる堀の切れ目も3カ所で見つかった。

一番の成果は、本丸東堀のさらに約70メートル東にも幅40メートル、深さ8メートル以上の人工のくぼみが見つかったことである。
この外堀とみられるくぼみは、北側や西側でも確認された。

そしてこうした外堀は、聚楽第を取り囲んでいた大名屋敷を取り壊してまで広げようとしていた意図が認められたのである。

画像:『聚楽古城之図』に描かれた聚楽第 public domain

この外堀拡張がいつ行われたのかは断定できない。

しかし秀吉が関白職を秀次に譲り、聚楽第を彼の政庁としていた時期と重なる可能性は高い。
なぜなら、秀吉は関白職を秀次に譲ると聚楽第を彼に渡し、自分は大坂城・伏見城を本拠としていたからである。

ではなぜ秀次は聚楽第に外堀を設けたのだろうか。

もともとの聚楽第は、本丸・二の丸・馬出しを備えながらも広大な外堀を持たず、純粋な軍事拠点とは言いがたい構造だった。
いわば「城郭の姿をした政庁」である。

もし秀次が外堀を掘らせていたとすれば、それは聚楽第を単なる「政庁」から「一大防衛拠点」へと変えようとした試みと見ることもできる。

秀次のその真意はいったい何であったのだろうか。

秀吉の進める朝鮮出兵に対する反旗への備え

画像:豊臣秀次像(部分)瑞雲寺所蔵 public domain

秀次が聚楽第の大改造に乗り出したのは、秀吉が朝鮮出兵のため、肥前名護屋城にいる期間だった。

そして「秀次切腹事件」が起きたのは、まさにこの時であったのだ。

結果から見ると、秀吉による朝鮮出兵は狂気の沙汰だったと言っても過言ではない。
それはその構想を見ても明らかである。

明に勝利した後は、後陽成天皇の御所を北京に定めて明の皇帝につけ、自身は寧波に居を構え、秀次を大唐関白とする。
日本国内の統治は秀保や宇喜多秀家などの一門衆に任せる、という誇大妄想的なものだった。

朝鮮との戦いは緒戦こそ有利に進んだものの、明軍が来援してからは戦局が泥沼化し、日本軍の間には厭戦気分が蔓延した。
このような状況下では、表立って反戦を唱える者はいないものの、大名の間では秀吉に対する不満が少なからず膨らんでいったことだろう。

もとより朝鮮出兵に距離を置いていたとみられる秀次に、こうした大名たちの期待が集まりやすかったとしても不自然ではない。
しかも秀次は、名護屋城での陣頭指揮を求める声があるなかでも京都を動かなかった。

こうした情勢のなかで、秀次が独自の備えを進めていた可能性は否定できない。
聚楽第の大改修は、その一環だったのかもしれない。

画像 : 狩野光信画『豊臣秀吉像』 public domain

だが、秀次のその行動は、ことごとく秀吉の耳に入ることになる。

利休を自害に追い込み、秀長も病死し、秀吉を制する者はいなくなっていた状況での秀次のこの動き。
しかもその場所が、いざとなれば天皇を推することができる京都・聚楽第だった。

それが「秀次切腹事件」へと発展していったとも考えられるのである。

このように聚楽第の外堀は単なる土木工事ではなく、秀次と秀吉との緊張関係を映すものであった可能性がある。
もしそうであるならば、「秀次は無実だった」という通説も、あらためて見直す必要があるだろう。

地中から現れた聚楽第の痕跡は、この事件の真相を物語っているのかもしれない。

※参考文献
千田嘉博著 『城郭考古学の冒険』 幻冬舎新書
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

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編集プロダクション「ベストフィールズ」とデザインワークス「デザインスタジオタカノ」の代表。歴史・文化・旅行・鉄道・グルメ・ペットからスポーツ・ファッション・経済まで幅広い分野での執筆・撮影などを行う。また関西の歴史を深堀する「京都歴史文化研究会」「大阪歴史文化研究会」を主宰する。

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